odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アガサ・クリスティ「象は忘れない」(ハヤカワ文庫) ポアロはかつての嫌味やひがみ、誇大な自尊心が影を潜め、人間性の詮索をすることもない。人間への興味をほとんどもたなくなってしまった。

 探偵作家のアリアドニ・オリヴァは、奇妙な依頼を受けた。名付け親になった(その事実すら記憶はおぼろ)シリヤの結婚のことだが、彼女の両親は12年前に心中事件を起こしている。その際、父が母を撃ったのか、それとも母が父を撃ったのか明らかにしてほしい。なんとなれば、当のシリヤが自分の養子の息子と結婚することになっているから。アリアドニはポアロに相談し(ジョージという従僕と二人暮らしで、ヘイスティングが出てこない)、それぞれ独自に調査してみようということになった。なにしろ、12年前。関係者の多くは高齢者。ポアロの名声を知っているものはすでに鬼籍にいる。うまくいくのか。
 というわけで、初期高齢者のアリアドニが素人探偵のまねをする。この女性、物覚えは悪く、家の中を乱雑にして家政婦を困らせるという独善的な、でも愛嬌のあるお婆さん。きびきびと動くことはできず、おしゃべりもあっちゃこっちゃに飛ぶという次第。相手も似たような人たちなので、なかなか情報は得られない。なにしろ、250ページ(2003年の文庫版)までほとんど情報がでてこないうえ、アクションが起こらないのだ。アリアドニが誰かを訪問する、ポアロが誰かを訪問する、アリアドニがポアロに報告する。それだけ。しかも、会話のことごとくを克明に記録する。この冗長さにはへこたれる。なるほどクリスティの作品の魅力のひとつは生き生きとした会話でであるが、かつて30-40代の作品であれば、確信とその周辺を記述して、次の章に行くものだが、それがない。厳しい。
 ようやく手掛かりがでてくるのは、シリヤの両親の主治医を訪れたとき。そうすると、シリヤの母には一卵性双生児の妹がいて、精神疾患で入退院を繰り返し、事件の数週間前から夫婦の家に同居していた(シリヤは寄宿学校にいたため知らない)。心中事件の10日ほど前に、妹は海岸の崖で転落して死亡していた。家からは4つのかつらが見つかった(1960年前後の英国女性にはかつらが流行っていたという)。

f:id:odd_hatch:20200630093216p:plain

 まあ、現代の科学捜査からすれば、この事件の真相が隠されることはありえないのだが、クリスティの主眼はリアルな描写に基づくミステリーを書くことにはない。前作「復讐の女神」同様に、ギリシャ神話のような人間存在の神話的なありかたを書くことにある。ここでは男女の愛。事件が過去のものであり、彼らの心情を代弁したりうわさしたりする人がいなくなっているために、彼らの愛は言葉で語られない。彼らの行動が明らかになったあとに、行動から浮かび上がるような仕方で見えてくる愛。死から遡行して生前を想像することによって浮かび上がる愛。それはおのずと神話のごときものにならざるを得ない。
 それに呼応してか、ポアロの存在も抽象的。かつての嫌味やひがみ、誇大な自尊心が影を潜め、人間性の詮索をすることもない。真相を明らかにしたあとは、人間の悲劇に憤ることなく、生きているものにわずかなアドバイスを贈るにとどめる。正義や法を実践する、あるいはその代弁者となる探偵であることはやめ、祭祀のように悲劇を報告するだけ。人間に興味をほとんどもたなくなってしまった。これがポアロの最後の事件(この後出版された「カーテン」の執筆時期は1940年代)。
 年を取るとはこういうものか。だんだんこのときのポアロの年齢に近づいてくると、ここに書かれる高齢者のありかたが切実になるなあ。

 

 

〈追記2023/11/9〉 晩年のクリスティは認知症を患っている可能性があると、文章と文体の研究から指摘された。

togetter.com

note.com

アガサ・クリスティ「カーテン」(ハヤカワ文庫) 作者死後に発表するはずだったポアロ最後の事件。過去の5つの殺人事件の見直しと私的制裁の是非。「そして誰もいなくなった」1939年を引き継ぐ。

 「ポアロ最後の事件」。もともとは作者死後に発表するはずであったが、存命中の1975年にでた。すぐに大評判になり、この国でもハードカバーで翻訳され、ベストセラーになった。漠然とした記憶だが、新聞に大きな広告が出たと思う。

f:id:odd_hatch:20200629092441p:plain

 ヘイスティングスは最初に手掛けた事件の場所である「スタイルズ荘」にポワロに招待される。久しぶりにあった親友の姿は彼を唖然とさせた。関節炎で車いすに乗っていて、心臓が悪くて時に発作を起こす。時間の過ぎるのはなんと早いこと。
 ポアロは過去の5つの殺人事件を示し、いずれも犯人がみつかっているが、実はX(エックス)なるものが主犯であるという。そのXがスタイルズ荘に来ている。未来に起こる犯罪を防止するために、ヘイスくん、調査に乗り出してくれたまえ、でも君はおっちょこちょいだから「真相」とXを告げるわけにはいかない。そういう謎めかしがあって、ヘイスティングスは何かを隠しているのが誰にもわかる捜査を開始する。
 スタイルズ荘は退役軍人夫婦の手に渡っていて、かつてのような豪華な接待はなくなりビジネスホテルのようになっていた。そこに暮らすのは、変人の科学者夫婦に、退役軍人に、何をしているのかわからない有名人に、鈍重な男たち。誰もが「落伍者みたい」というのは30代独身の女性。夫婦ものは仲が悪そうであって、ほかの人たちは辟易としている。そのうえヘイスティングスの娘(妻は死亡)は一回り以上上のプレイボーイに熱を上げているようで、父は娘が気がかりであり、時に叱責もしてしまう。なので、ポアロに指摘されるまで、任務を忘れてしまう。そして、スタイルズ荘の管理人がウサギと思って銃を撃つと妻にあたり、科学者が研究中の毒薬を妻がうっかり飲んで死亡する。何ごとかを目撃した鈍重な男がポアロに通報するつもりでいたら、密室になった自室でピストル自殺していた。いずれも、事故や自殺で結末が付き、ポアロが提示した5つの殺人事件と同じような結末に至る。
 解説によると、本書(とマープル最後の事件「スリーピング・マーダー」)は1942年の「書斎の死体」の後に書かれて、いずれも「死後公開すべし」として保管されていた。執筆のタイミングと発表時期がずれたために、作品の背景があわなくなった。風俗や習慣がそうであるし、父と娘の対立はとても古風。老年期の理解は不足(なのでできないことをできるとしてしまう)。1970年代の「象は忘れない」「復讐の女神」ではポアロやマープルの世代はむすめや孫の恋愛には介入しない。身体の衰えは気力の衰えとなり、他人に介入することはほんどない。
 本作の趣向は、過去の5つの殺人事件の見直しと私的制裁の是非。その点で「そして誰もいなくなった」1939を引き継ぐもの。作中では安楽死の議論があり、肯定と否定の意見がいずれもあった。そこでは本人意思よりも他者介入や判断の問題が優先されていて、上の犯罪の私的制裁にかかわる主題となった。また、未来の犯罪の防止という趣向は「ゼロ時間へ」1945でより精緻に展開される。その主題と、老年の体力気力の衰えに齟齬があり、どうもうまくいっていないなあ。
 そのうえ、もうひとつ一人称の手記という問題。思い込みが激しく感情的な語り手の手記はどこまで信用できるのか。そういう語り手は「アクロイド殺し」にいたし、ここではむしろ「そして誰もいなくなった」を思い出したほうがいいかもしれない。ポアロは過去の5つの殺人事件の延長に現在の事件があるとおもっているが、それが正しいという保証はポアロが言及していることにしかない。むしろ作品の現在において、よりリアルな動機があるとも考えられるのではないか。犯人の自白以外に証拠がない状態でそれが正しいという保証はどこにあるのか。「犯人はあなただ」といわれた語り手が正確に記述している保証はどこにあるのか。なので、西村京太郎「名探偵に乾杯」(講談社文庫)のような読み直しも可能になる。そういう方向で、「ポアロさん、あなたは間違っています」という文章もどこかにありそう。
(それは「そして誰もいなくなった」もおなじなのだが、そのような疑いをさしはさむ余地が生まれないのは、文体と構成そのものにある。古風な探偵小説のフォーマットでかかれた「カーテン」では、スキだらけになってしまう。)
 発表直後に出た感想をいくつか思い出したが、そのなかでこの作品をお蔵入りにしたのは駄作だったからではないかというのがあった。なるほどそうとも言えるなあ、と思えるのは、執筆同時期の他の長編に比べて劣ること数等というできだから。

 

  

アガサ・クリスティ「スリーピング・マーダー」(ハヤカワ文庫) 作家が50代に書いたミス・マープル最後の事件。オイディプスでアガメムノンのような神話的な構造とストーリー。

 俺くらいの年齢になると、クリスティが亡くなったときの報道を覚えているし、死の数年後にでたクリスティ読本をもっていたりする。亡くなる前年にポワロ最後の事件「カーテン」がでて、もうひとつミス・マープルものの長編が出るだろうというのも覚えている。「カーテン」は早い時期に読んだが、マープル最後の事件はこれまで未読だった。

f:id:odd_hatch:20200626093936p:plain

 さて、21歳の新妻グエング・リードが郊外によい家を見つける。不思議なのは、その家は初めて来たはずなのに懐かしいと思えること。壁紙の趣味が悪いの別にしようとしていて、表のがはがれたら、思い描いたのと同じ色合い、柄の壁紙が現れた。なぜか「ヘレン」のことが気になり、古典劇を見ている最中、一気に記憶がよみがえる。わたしは、この家でヘレンが殺されているのを見ていた。それが抑圧されて、今まで忘れていたのだった。ここまでの展開は順調。イギリスの幽霊屋敷もののパターンに、精神分析を組み合わせた一世代前の怪奇物語。
 グエングはほかの人が昔は掘り起こさないほうがいいよというのを振り切って、夫のジャイルズといっしょに、記憶をよみがえらせる。すると、その家の持ち主は死んだ父のもの。グエング3歳の時に引き払って、ニュージーランドに移民したので忘れていたのだ。父はいっしょにならずに、精神病院に入院。妻を殺したというオブセッションで衰弱した結果だった。グエングは記憶にないが、父は再婚していて相手の名がヘレン。屋敷を引き払ったのはヘレンが駆け落ちして、失踪してしまったから。
 ここまでわかったので、グエングとジャイルズは、ヘレンの関係者を見つけようとする。新聞に広告を出すなどして、ヘレンの存命中の知り合いを見つけると、兄の医師ケネディ、弁護士フェーン、観光会社経営者アフリックが見つかる。ヘレンは彼らと熱愛し、婚約までしたが、失踪の後、それらは破棄されていた。ほかに、小間使いや子守りなどの関係者がいることもわかる。
 このあたりの展開は、クイーン「フォックス家の殺人」に酷似。世界が沈滞しているところに、元気にあふれた女神が降臨する。すると、地の穢れが地割れから噴き出してきて、平穏な世界が混沌にまみれてしまうというわけだ。この女神は無垢で無知であるのだが、次第に事件の核心にあるのが、自分自身であると認識していく。周囲が止めるのを聞かずに、事件の真相を目指すというのは彼女のアイデンティティの回復のためにほかならない。それは彼女と父ないし母との葛藤を解消するためのもの。ああ、ほとんどオイディプスアガメムノンだね。そういう神話的な構造とストーリーなので、この小説は表層の退屈さを忘れることができる。
 ヘレンは小説では一言もしゃべらないで、人の言葉でもって語られるだけだが、無個性な女性であったものが、男を狂わす魔性の女として表れてくるのが見事。ここもクイーン「」「最後の女」などを思い出した。
 主人公はミス・マープルではなくて、グエングとジャイルズの夫婦。ミス・マープルは、甥の小説家がこの夫婦の知り合いだということで事件に関係する。小説にはほとんど登場しないで、隠れて関係者を観察する。具体的な証拠よりも、彼女は観察した人間性に重きを置き、そのうえ心理の洞察を加えて(それは会話の端々にでる言葉を分析することで得られる)、推理する。このやり方はハードボイルドのカメラアイにとても近しい。黄金時代の探偵小説と40年代のハードボイルドは水と油の関係にありそうだが、それほど遠いわけではない。むしろ、意図せずして(かどうかはわからないが)、クイーンやクリスティの探偵小説がハードボイルドに似てくるのはどうしたわけか。
 さて、本作は作者の死後に発表されたのだが、書かれたのは1940年代。当時作者は50代か。その年齢を意識すると、グエングは21歳で17年前の事件を調査する。この若い女性があうのは、17年前に独身者の恋愛を生きてきた人たち。この小説では40-50代。クリスティにとっては執筆当時の自分の年齢に近しい人たちを書いている。そのせいかミス・マープル最後の事件というわりには、事件の関係者もマープルもまだまだ活動的であって、老いを感じさせない。グエングやジャイルズもまだまだ動ける(介護が不要な)人として接している。そこらへんが「最後の事件」と思わせるには、不十分だったなあ。「象は忘れない」「復讐の女神(メネシス)」などの作者の最晩年の作だと、こうした老いの痛切さや不自由さがあったのに。