odd_hatchの読書ノート

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アガサ・クリスティ「カリブ海の秘密」(ハヤカワ文庫)

 リューマチの痛みがあるマープルに甥のレイモンドがカリブ海の島で過ごす休暇をプレゼントした。あいにく、カリブ海の気候はあまりマープルにはふさわしくない。それにイギリス人夫婦の経営するゴールデン・バーム・ホテルの宿泊人も退屈だった(経営者のせいか、1964年のこのホテルに泊まっているのはイギリス人ばかり)。今日も退役軍人のパルグレイブ大佐の話を聞かされる。二人の妻を殺した男がいるのだ。この財布にその男の写真がある。見せようとしてパルグレイブ大佐はマープルの右肩越しになにかをみて、顔色を変えた。写真を見せるのをやめてしまう。その翌日、大佐は心臓発作で亡くなった。事件性はないと思われたが、本人が持っていない薬を服用したらしい。浴室の洗面台からみつかったのだ。
 もしかしたら、大佐は写真の男をみつけたのではないか。マープルは医師を使ってみつけようとしたが、財布の写真は失われていた。そして、ホテルの従業員(大佐の部屋に薬を入れた瓶を発見した)が深夜、刺殺されていた。となると、「犯人」はまだ殺人を起こすのではないか。誰が誰に向けた殺意を持っているのか、訊問ができないマープルはおしゃべりや噂話から見当をつけないといけない。幸い、宿泊客はマープルの話を行儀よく聞いてくれる中年の中産階級ばかりだった(なので、マープルはビクトリア時代のモラルやマナーを知らない戦中派の若者に悩まされない。

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 ホテルを舞台にすると、そこに集まる動機や被害者との関係を本文で説明する必要がない。なのでたくさんの人がそこにいてもおかしなことにはならない。60年代のクリスティがホテルやツアーを小説の舞台にしたのは、そのあたりの節約原理が働いたのかしら。同時に、読者はマープルと同じように宿泊客やツアーの利用者にタブラ・ラサの状態で合うことになる。探偵と読者の情報に差異が生じないようにする工夫。
 アメリカや日本ではホテルの宿泊者やツアーの同行者で親密な関係が生まれることはめったにないのだが、イギリスの中産階級では熱心に社交する。その結果、本国にいたときの情報が持ち込まれる。そうすると、宿泊客夫婦の間で不倫が過去にあったとか、ホテルの経営者も落ち着くまでに苦労があったとか、金を持ちすぎる老人が秘書や介護人に癇癪を起してばかりとか、大佐におとらず怨みや殺意を買いそうな人がいるのがわかる。ついには、被害妄想なのか精神疾患なのか不安と恐怖にさいなまれているホテル経営者の妻が殺される。しかし、実際は彼女によく似たかつらをかぶっていた宿泊者の女性(不倫をしている人)だった。ここに至ってマープルにようやく慧眼が訪れる。
(以下ネタバレ)
 マープルとイギリスの中産階級の会話は悠長で、噂話の真偽はわからないしで、眼が滑ることが多々あったのだが、マープルがまだ起きていない殺人を止める行動を起こしてからは座りなおすことになる。リューマチがあっても不審と思えた人物の尾行をするし、暴行や殺人の騒ぎが起きると現場を必ず確認するし、と活動的(次作「バートラム・ホテルにて」ではそこまでアクティブではない)。なるほどこの作は過去の殺人を暴くのが目的ではなく、未来の殺人の防止にあったのか。「ゼロ時間へ」がほかの小ネタと合わさって再話されているのか、とクリスティの創意にびっくりする。すでに起きた殺人でも、おしゃべり・噂話にでてきた些細なことが重要な意義を持っていて、ピタピタとあてはまっていくのを読むのは快感。クリスティの具術を堪能できる佳作。
 金持ちで半身不随の気難しい老人ラフィール氏は没後にマープルに過去の事件の捜査を依頼する。それが「復讐の女神」につながる。タイトルの由来は本書でラフィール氏に捜査協力を頼むときにマープル自身が自分をそのように喩えたことに由来する。過去に犯罪を犯した人を懲らしめ、実行に至らせないようにするギリシャの女神の由。
(解説(芳野昌之)では、ポアロのマイノリティ性に注目している。ベルギーからイギリスに避難してきたポアロは故郷を喪失した根無し草。なので、法治主義に準拠し、事件の関係者とは一定の距離を置く。名声を獲得しリスペクトを得ているが、親密な共同体にいるわけではない。ベルギー避難民と生活しているわけでもなく、ひとりで都市に住む。ヘイスティングスと疎遠になったのはそのせい?と疑ってしまう。
 一方マープルはセント・メアリー・ミードの長い住人。おしゃべりと噂話ができる気楽な友人がいて、海外旅行をプレゼントする甥のような家族・親族もいる。村で起きる事件では関係者は古い知り合いであるし、外にでてもおしゃべり・噂話をするグループに入っていける。なので、マープルは時に事件の関係者の決断や選択に介入する。本作が典型的。そして犯罪者にも一定の同情を示すことがある。そうすることで関係者の社会関係を変えることをためらわない。マープルはイギリス社会のマジョリティの住民だから、構成員にかかわることができるのだ。)