odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

大江健三郎「美しいアナベル・リイ」(新潮文庫) 70歳を超えた作家と妻と障害を持つ息子の3人だけの「静かな生活」に来たはた迷惑な闖入者の物語でメイキング・オブ・同時代ゲーム。

 自分は1994年以降の大江の作品を追いかけていないので(「宙返り」を除く)、長江古義人のシリーズはまったく知らない。なので、この2007年の作品では、説明抜きで古義人やその家族の名前が出てきて戸惑った。過去に彼らに起きた事件やその顛末も知らない。なので、この小説はシリーズの一作ではなく、単独のものとして読むしかない。

 最初に深いため息をつくのは、障害のある息子「光」がすでに中年を過ぎ、語り手「私」は不整脈で水泳の習慣を止め、たわむ棒(フレクス・バー)を使って歩行訓練をしているというところ。知的活動にも自信がなくなっているという述懐もある。ああ、70歳を超えるということはそういうことか。老年になるというのはまず身体の在り方として現れるのか。そうして、他の息子や娘はすでに家を出て、妻と障害を持つ息子の3人だけの「静かな生活」を送っている。国際的な文学賞をとったものの、さまざまなオファーは断わっているとき、未来や希望というのは長期的なものとしては現れず、過去の失敗や不明も心を突き刺すものではない。これも老年の在り方なのであろう。そこを寂寥とみるのか、諦念とみるのか、あるいは平明で自在な境地と呼ぶのか。
(2015年夏の安保法制論議中の国会前集会では、安保反対、安倍政権反対のプラカをタクシーから掲げながら、国会周辺のデモにエールを送るというアクションをみせた。同年には何度か反原発の集会であいさつもしていた。)
 歩行訓練の日々に、古い友人が声をかける。前立腺がんの緩解期にある大学の同級生。彼が懐かしい友人サクラさんの消息を伝えに来たとき、「私」はおよそ30年前の1975年の記憶がよみがえる。この記憶はさらに古い記憶を呼び起こし、記述は錯綜する。その重層するところを読むことこそ小説を読むことであるが、ここでは簡略にまとめてしまおう。
 敗戦直後。戦災孤児アメリカ占領軍の将校が引き取る。彼女の美貌と演技の才能に惚れて、ひとつの映画をつくり、以後国際的な女優となる。それがサクラさん。「私」が高校生になった時に、松山の文化センター(戦災孤児の引き取られていた都市)で作者不明の映画「アナベル・リイ」をみる。その中のシーンに強い影響を受ける。そして1975年、「私」の前に大学の同級生とサクラさんが訪れる。あるプロダクションがクライスト「ミヒャエル・コールハースの運命」を共作する企画があり、「私」に脚本を依頼した。15世紀にあったある民衆の叛乱の物語(岩波文庫がでているが、本書中に要約がのっているので、知らないでも大丈夫)。「私」は「万延元年のフットボール」で構想して実現できなかった四国の村の一揆の物語をこの小説にだぶらせ、日本の時代劇として描くことを提案。一揆の首謀者「メイスケ」をコールハースに重ね、彼の一生に強いかかわりを持った「メイスケ母」のテーマを膨らませる。しかし映画企画は頓挫。プロデューサーはサクラさんの出演した「アナベル・リイ」映画の無削除版を入手し、「私」とサクラさんの前で上映。サクラさんは強いショックを受ける。アメリカに帰国した彼らとは消息不明のまま35年が過ぎ、70歳前後になった彼らが再開。神経症の治療を終えたサクラさんは新しい「アナベル・リイ」映画を企画し、まず舞台で上演する。
 1975年の中年のときに、彼らはそれぞれがそれぞれを傷つけあい、強いショックと治癒しがたい傷を負う。その点で、人生は思いどうりにならず、むしろ負債を抱えるかのような困難を引き受けざるをえない。それは中年までの人たちにとっては悲劇であるが、さらに35年を経過して、時の彼方に置いてきてしまったとき、過去の挫折や自己懲罰などは今に引きずらない。長年の無縁がはからずも癒しとして働いたわけだし、また老年になって未来や希望を積極的に構想しなくなったということも働いているだろう。ひとりはがんで余命がないことを自覚し、もうひとりは老衰を自覚し自分のいない後の世界に障害のある息子が生きることを受け入れようとする。ラストシーンもほのかな光のような希望が射しこんでいるようだが、もはや強いメッセージを伝えるものではない。著者はかつて「生者のあらん限り/死者は生きん(日常生活の冒険)」といったが、そのような意識にはならない。もっと力の抜けた透明な気分になっている。
 「メイスケ」「メイスケ母」をめぐる話は「メイキング・オブ・同時代ゲーム」という趣き。「私」の母が敗戦直後に村の倉庫で大掛かりな芝居をしたというのは「いかに木を殺すか」の変奏。映画の脚本を書かないかと誘われるのは、「浅間山荘」のトリックスター@河馬に噛まれるの変奏。実現不可能なことを構想して語り手を巻き込んで失敗する「木守(コモリ)」も「日常生活の冒険」以降の迷惑な闖入者の系譜にあるもの。
 また、ほかの本や小説のイメージが人物や物語に深くかかわる。T.S.エリオットの詩、ポオ「アナベル・リイ」(日夏耿之介訳)、ナボコフ「ロリータ」、ハーディ「日陰者ジュード」、クライストの前掲書。語り手があったことのある金 芝河、エンツェンスベンガー。このような文学、文学者へのリンクとイメージの交換も小説を豊かにしている。