odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アガサ・クリスティ「復讐の女神」(ハヤカワ文庫) マープルはお茶目で世話好きでおしゃべりなおばあちゃんから神話的な「復讐」の実現を確認する形而上的な立場に立っている。

 80歳になったミス・マープル(著者クリスティも同じ年齢)は、リューマチで手がこわばり、きびきびと動くことはかなわない。なにより友人や知り合いはことごとく世を去り、おしゃべりを楽しむ相手はいない。セント・メアリー・ミードで村人を観察する喜びは失われている。大江健三郎「美しいアナベル・リイ」(新潮文庫) と同じ老齢の悲しみと孤独がいや増している。そこに、過去からの手紙が届き、過去の封印が開くのも、大江の同作と同じだ。

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 7年前の「カリブ海の秘密(1964)」事件でいっしょになった大金持ちラフィール氏から、「復讐の女神(ネメシス)」となって犯罪の捜査をしてほしい。でも何の犯罪なのかまったくわからない。受諾して数日後、マープルのもとにイギリスの著名邸宅と庭園巡りの旅のチケットが送られてきた。マープルは誰一人として知る人のいないツアーバスに乗り込む。旅が進んでも、なにもみえてこない。本のページが半分にいたっても、何が事件なのかわからないので、読者もやきもき。
 ツアーの途中で女学校の校長が落石にあい、マープルに謎めいた言葉を残す。ほかにもマープルに接触して話をしてくる人たちがいる。おぼろげにわかってきたのは、10年間にラフィール氏の評判の良くない息子が殺人で収監されている。息子は殺したとされる娘と駆け落ちしてでも結婚するつもりであったのに、何かの理由で止めてしまった。そのあと死体が発見され、息子が有罪とされた。でも、殺された娘の女学校の校長や、結婚式の相談相手になっていた副司祭らは娘はそういうことをしないという。
 この事件の前後にある三姉妹の住む家に招待される。彼女らもまた、ラフィール氏の息子の事件を近くで見聞きしていた人たちだった。過去の事件の情報は彼女らからもたらされる。でも、雲をつかむような状態は変わらない。ラフィール氏はいったい何をマープルに望んでいるのか。
 マープルは動かない/動けない。リュー・アーチャーのように聞き込みにいけないし、クイーンのように警察の情報を横からとることもできない(そもそも刑事的には終わった事件だから)。そのうえ、自分の使命もわからない。それでも、ラフィール氏の手配によって、断片的な情報の持ち手が入れ替わり立ち代わりで話をしに来る。その話と彼女の観察によって、真相に近づく。ああ、と思ったのは、立場は違うがこれはソポクレスの「オイディプス王」ではないか。いや、ラフィール氏が命名したように「復讐の女神(ネメシス)」だ。そこで発見しようとするのは、クリュタイムネストラアガメムノン
 これまでのマープルはお茶目で世話好きでおしゃべりなおばあちゃんだったが、この最後の登場作(「スリーピング・マーダー」が死後に発表されるが、書かれたのは1940年代)では、そのような人間らしいことはほとんど消えている。空気のように偏在する観察者。なので、過去の事件の真犯人と対峙したとき、真相が暴露された犯人がどのように行動するかをわかっていても、止めようとしない。それは彼女は社会の正義にいるのではなく、神話的な「復讐」の実現を確認する形而上的な立場に立っているから。重要なのは行為によって生じた「復讐」を完遂させること。それによって自縄自縛の憑き物から解放させること。解放されれば、生死は意味がない。こういうところも、オイディプス王アガメムノンなどのギリシャ悲劇を思い出させる理由。
 1971年初出。

 

〈追記2023/11/9〉 晩年のクリスティは認知症を患っている可能性があると、文章と文体の研究から指摘された。

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