odd_hatchの読書ノート

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江戸川乱歩「カー問答」(1950)(ミステリマガジンNo255,1977年7月号から全文採録)

  

 

略歴

「あなたはカーがひどくお好きなようだから、いろいろお訊ねして見たいと思いますが、先ず彼の略歴から一つ」

「そうだね、僕も詳しいことは知らないが、ここにあるヘイクラフトの『娯楽としての殺人』(探偵小説史)と、やはりヘイクラフトの執筆している『二十世紀著述家辞典』からカーの略歴を拾い出してみよう。本名は John Dickson Carr筆名は二つあって初期にはCarr Dicksonと云ったが、後にはCarter Dickson一本に統一した。この筆名と本名で並行して書いている。生れ年は一九〇六年(カー自筆の文章による)。本来アメリカ人だが、探偵小説を書きはじめるより前から現在(昭和二十九年)までずっとイギリスに住んでいるし、小説の人物や舞台も大部分イギリスだし、又、イギリス探偵作家クラブの幹事長をやっているくらいだから、一般にイギリス作家と認められている。人名辞典などにはAmerican-English Writerと記されている。やはり国民性は争えないもので、カーはチェスタートンなどの影響を受け、イギリス風が好きらしいのだが、思想にも、文体にもやっぱりアメリカが顔を出している。そういうことが“米·英作家”という表現で、一目でわかるわけで、この書き方は大変便利だと思う」

[後記]カーは一九四八年か九年に一家を引きつれて米国に帰り、ペンシルヴァニア州のウエストチェスター市に定住した。

アメリカのどんな家庭に生まれたのですか。そして教育はどこで受けたのですか」

中流以上だね。家はペンシルヴァニア州のユニオンタウンにあり、お父さんはその市の郵便局長をやったこともあるが、一九一三年から一五年まで国会議員に選出されている。時の大統領ウイルソンなどとも同席で話をしたわけだね。カーは八歳の時に議員のお父さんにつれられて、ワシントン市へ出かけ、偉い政治家などの前で、シェークスビアの暗誦なんかやったというが、その時、ウイルソン大統領に向かって『小父さんの名は何ていうの?』とたずねたことが一つ話になっている。カーはどうもおませの少年だったらしく、十四歳の時には地方新聞に雑文のようなものだろうが、寄稿をして、度々採用されたという。そういうジャーナリスティックなことが好きで、学校は余り好きでなかったようだ。小学校から大学にかけて、まともに全課程を終えた学校はたった一つしかなかったと、カー自身が書いている。成績もよくないし、いたずらもひどかったのだね。大学はペンシルヴァニア大学で、父親の命令で法律をやったのだが、これも中途で投げてしまったらしい。カーは学校がうまく行かなかったのは、一つは数が苦手だったせいもあると書いている』

「探偵作家のくせに数字が嫌いというのはおかしいですね」

「そう来るだろうと思った。しかしね、探偵小説家必ずしも数学好きとはきまっていないね。科学小説家が真の科学者でないのと同じことかも知れない。僕なんかも可なり理屈っぽい小説も書いたくせに、中学時代の一番の苦手は数学だった。一つは教授法がまずいせいもあると思うが、兎に角僕は代数的な頭がなかった。そのくせ理屈っぽい考え方は好きなんだから、この事は少し深く考えて見ると面白いかも知れないね。余談はさておいて、カーがペンシルヴァニア大学を卒業したかどうかはハッキリしないが、一九二〇年代の終り頃に外遊を思い立って欧州へ遊学したのだ。お父さんにそれだけの余裕があったわけだね。そしてパリやロンドンで数年をすごしたが、学校に入って勉強したらしい様子はない。カーはその頃ヨーロッパ人の家庭に入って、いろいろ社交を覚えただけだと書いている。そして、やはり好きな道の文学には関心を持ちつづけていたらしく、探偵小説を書く前に、歴史的ロマン小説を一つ書いたが、これは余りバッとしなかった。その次に一九三〇年、二十五歳の時、探偵小説の処女作『夜歩く』を出したが、これは大いに反響があったので、結局探偵作家として立つことになったわけだね」

「すると今年(昭和二十五年)で二十年探偵小説を書いているわけですね。幾つ位書いたのですか」

「カーは長篇作家だから、一冊が一作になるわけだが、僕の計算によるとカーの本名で二十八冊、ディクスンの筆名の方で十八冊、そのほかに短篇集が二冊とジョン·リードとの合作長篇が一冊あるから合計四十九冊書いたわけだね」

[後記]これは一九五〇年初めまでの計算。今日ではずっとふえている。

「すると、一年に二冊半に近い分量ですね」

「まあ多作家の方だろうね。日本には新聞や雑誌の連載小説を一度に五つも六つも引受けている作家があるが、西洋にはそういう連載は殆んどなく、皆書下し長篇として初めから本にして出すのだから、二冊半といえば多作の方だ。たいていは一年又は二年に一作というところだね。しかし、平均すると二冊になるが、一冊も出さない年もあり、又ここ五、六年は、さすがのカーも疲れたと見えて作量(ママ)がグッと減っているので、この平均数を出す為にはある時期には年に四冊も五冊も書いていることになる。そういう筆力旺盛だった時代は一九三四年から四〇年頃までで、この七年間に彼は二十七冊書いている。平均年四冊だが、一番多いのは一九三七年と八年で、この二年間に五冊ずつ十冊出版している。これが最高だね」

「クイーンなんかに比べてどうですか」

「クイーンは二人がかりだけれども、カーよりはずっと少ない。この間クイーンから最新著、今年(昭和二十五年)の六月出版の『ダブル·ダブル』という長篇を送ってもらったので、二、三日前に読み終ったところだが、その本の扉に現在までのクイーンの著作目録が詳しく出ている。それによると、長篇が二十四冊、短篇集が三冊、合計二十七冊にすぎない。カーの半分より少し多い程度だね。尤も、クイーンはこのほかに少年物を六冊書いているがね。クイーンの処女作は一九二九年だからカーより一年早い。作家としての年齢は殆んど同じで、カーの方がこれだけ多く書いているんだから、やはり多作家と云えるだろうね」

「ちょっと余談になりますが、そのクイーンの最新書というのは面白いですか。『ダブル·ダブル』というのは、いったい何の事ですか」

「盾の両面、銀貨の裏表というように、物事には必ず二重の意味があるということを現わした題名なんだ。筋がそういう筋なんだね。簡単に云うと、ヴァン·ダインの『僧正殺人事件』やクリスティーの『みんな居なくなった』と同じ童語殺人だが、ヴァン·ダインやクリスティーのは童謡に合せる為に理由のない殺人もやっているが、今度のクイーンの小説は童語にも合うけれども、一方また夫々の殺人に皆ちゃんと理由があるんだね。この点が新らしいと云えば云える。舞台は『災厄の町』や『フォックス家』と同じライツヴィルで、読者の方でもこの町にすっかりお馴染になってしまったわけだが、面白さは前の二つの作に比べてちょっと劣るようだね。しかし、文章はうまい。実にうまくなったね。クイーンでもカーでもクリスティーでも、皆文章には凝っている。会話でも実にしゃれている。泥臭さがないんだよ。この点、日本の作家も見習っていいね」

「話を元に戻して、カーの家庭のことはわかりませんか」

「奥さんはイギリスのプリストルの人だ。ジュリアという娘さんがある。しかし、これは一九四二年の辞典の智識だから、現在ではもっと子供が出来ているだろうと思う。

[後記、一九五〇年には三児になっている。]

ロンドンに家庭を持っていたが、戦争でひどい目にあっている。一九四〇年の末にドイツの爆撃で自宅をやられ、それから奥さんは子供と残った家財を持ってブリストルの実家へ疎開し、カーは一人でロンドンのクラブ住いをしていたが、そのクラブが又爆弾をうけ、危うく死をまぬがれて、カーも奥さんの所へ合流することになった。すると、このブリストルの家がまたやられたんだよ。そして、ロンドンから運んだ家財もすっかり焼いてしまった。さんざんな目にあったわけだね」

 

 

作風

「では、カーの作風について一つ。あなたはいつかカーの作はチェスタートンの短篇を長篇にしたようなものだと書いていましたが、このチェスタートンの影響ということは、英米でも云われているのですか」

「余り云われていないんだよ。ヘイクラフトなども、チェスタートンとの類似については何も云っていない。かえってフランスのフォスカが『探偵小説の歴史と技巧』の中で探偵小説を三つの型に分け、第一を煽情的作風、第二を現実的作風、第三を空想派とし、こう書いている

“第三は空想派探偵小説で、正確な推理と卓抜な独断を具えたおしゃべりが巧みであれば、その物語が持つ半非現実的な雰囲気を吾々が受け容れる程に吾々の興味を引く探偵小説である。G·K·チェスタートンは押しも押されぬこの派の主領株で、彼に並ぶものは殆んどないのである。しかし読者はJ·ディスクン·カーやマージェリー·アリンガムの或る種の小説の中に架空的諧謔の光を発見する”

長崎八郎の訳文だよ。少しかたい訳だね。アリンガムについてはそれ程に感じないが、カーの作は全体としてチェスタートンの影響が感じられる。この訳文の“ある種の小説”というのはアリンガムの方だけにつくのじゃないかと思う。カーはある種のでなくて全体なんだよ」

「すると、カーの小説はヴァン·ダインやクイーンと根本的に違っているのですか」

「根本的というほどではないね。非現実の度か強いのだね、ヴァン·ダインでも、やはり手品小説に違いないんだから、文学上のリアリズムとは云えない。けれども外観は一応リアルな手法で書いているが、チェスタートンとなると、全然架空のお伽磨なんだね。その意味で完成している。カーもそれに近いけれども、長篇であるだけにチェスタートンほど完成品にはなっていない。しかし架空を骨子としていることは確かだね。殺人事件で殺された人間を見ても、死の意味だとか人間のはかなさだとかいうことは余り考えないで、つまり登場人物が真から悲しまないで、これを単なる謎の問題として取扱う。そういう非人情は探偵小説一般にあるが、カーのはそれが一層強いのだね。厳粛なというものを、登場人物達は冗談半分に扱っているような感じさえある。殺人を遊戲化し、鬼ごっこをしているという感じだね。カーの作には全くファースと云っていいものも幾つかあるが、それほどでなくても全体に諧謔の要素が多分に含まれている。チェスタートンもそうだが、登場人物の凡てが心の底にこの諧謔――遊びの気持を持っているので、リアルな恐怖というようなものは余り感じられない。無論一種の恐怖はある。しかし、それはリアルな恐怖ではなくて、錬金術とか心霊学、悪魔学というような奇術性のある、謂わばモダン·ゴースト·ストーリーの架空の恐怖なんだね。こういうアンリアルな味から、探偵小説の登場人物は凡て将棋の駒だと云われている。そんなことから、近年の探偵小説は段々リアルな書き方になって来た。手品派の一方の将であるクイーンすらも、『災厄の町』あたりからリアリズムを気にして書いていることがよく分る。だから、風俗小説的な面白さは加わっては来たが、筋の独創という点では、手品性が減って面白くなくなった。ところが、カーは一向リアリズムを気にしないんだね。あくまでアンリアルで行こうという気概が見える。この種のアンリアル小説は、文学上に於いて、リアル小説に対抗して充分存在価値があると考えているようだね。私もこれには賛成なんだが、このカーの自信のうしろにはチェスタートンという守り本尊が控えている。クイーンはチェスタートンの弟子じゃないから駄目だけれど、カーはチェスタートンの弟子だから、悠然としてたじろがないのだね」

「あなたの持論が出ましたね。ところで、大分分ったように思いますが、もう少し具体的にチェスタートンとの類似を指摘してもらえませんかね」

「一番はっきりしているのは不可能興味だね。カーはインポッシプル·クライムの作家という定評がある。その先祖はチェスタートンだし、もっと遡れば、創始者のポーがやはり不可能興味の作家だった。一つ一つオリジナリティーのあるものでなければ書かなかった。チェスタートンもポーほどではないがオリジナリティー第一の作家だし、カーもそれを志している。君も知っているように、カーは〈密室犯罪〉ばかり書いている。これじゃ一向オリジナルではないじゃないかと云われそうだね。最近大下(注:宇陀児)君も何かの随筆にそんな風なことを書いていた。〈密室〉はルルゥの『黄色の部屋』だけで沢山だ。最初ああいう手を考え出した作家は偉いが、その同じ密室トリックをいつまでも書いていたって意味がないじゃないかというのだ。大下君はずっと早く出たザングウィルの『ビッグ·ボウ事件』を読んでいないからそんなことを云うのだが、若し読んでいたら、『黄色の部屋』もつまらないということになるかも知れない。しかし先に『ビッグ·ボウ』があっても『黄色の部屋』はやはり面白い。それと同じに『黄色の部屋』があってもカーの諸作はやはり面白い。密室物ばかり続けざまに出されても、一つ一つ創意があるので、決して飽きないんだね。〈密室〉が一度出たら、あとの〈密室〉ものは皆つまらないとなれば、カーに今日の盛名はあり得なかった筈だからね。カーは現在英米の五指に屈せられる作家だ。評論家にも認められているし、読者も英米に亘って非常に多い。私だけが好きなわけでは決してないんだよ。しかし、断っておくが、探偵作家は生涯に一度か二度は必ずといってもよいほど密室ものを書くものだが、その程度でいいので、カーのように続けざまに密室ばかり書くことは一般には勧められない。そういう作家も一人位あっても差支えないが、誰も彼も密室を書かれたのでは、やりきれない。カーはあくまで特殊例外の作家なんだよ」

「密室ばかり書いて、そのトリックが、皆ちがっているとすれば、なるほど偉いものですね。ほんとうに一つ一つ違っているのですか」

「ドアに仕掛けをするメカニズムを色々に変えるというようなのではなくて、もっとグッと違っている。一つ一つ違っている。カーにだって、無論駄作もあるけれども、決して同じトリックは使っていない。それからチェスタートンとの類似についてもう一つ云っておきたいことがある。いつも書いている通り、謎解き探偵小説の条件は、出発点の不可思議性、中道に於けるサスペンス、結末の意外性という三つで、これが一つでも欠けると、やはりそれだけ興味が減ると、私は信じている。ところが西洋の短篇全盛時代にはこの条件が割合実行されていたが、長篇時代になってから出発点の不可思議性というものが非常に薄くなってしまった。この作家は結末に行けば必ず満足させてくれるだろうからという信用で読んでいるようなものだ。前半はクドクドと証人調べの問答などつづくのが多くて、信用がなかったら読めやしない。つまり強いサスペンスがないのだね。サスペンスがないと云うのは冒頭に非常な不可思議が提示されていないからだ。カーはやはり、この出発点の不思議性とサスペンスの欠乏に不満を感じていたのだろうと思うね。ところが短篇を見ると、ドイルなんかも最初に不思議な問題を提出することでは随分骨折っている。チェスタートンとなると更らにドイル以上だ。飛切りの不思議を持ってくるんだね。だからサスペンスも充分ある。これが不可能興味というものだよ。そこで、カーはこのチェスタートンの手法にひきつけられた。長篇で一つこれをやってやろうと考えたに違いない。しかし長篇を持ちこたえるサスペンスの為の不可思議となると、短篇に比べて遙かにむずかしい。カーはそこでオカルティズムのあらゆる智識を持込んで来た。あとで話すが、それは実にあらゆる魔術的現象に亘っている。その上密室と来るんだから、不可思議性満点、これで十二分のサスペンスを出すことが出来る。少し過剰なくらいだね。文章が気が利いているからそれほどにも感じないが、拙い訳で読むと、その悪い所だけが目につくかも知れない」

「あなたの説では、カーはチェスタートンほど天衣無縫に行っていないというのでしたね」

「そうなんだよ。チェスタートンも随分オカルティズムを出したが、短篇だからカーほどあくどくする必要がなかった。それにチェスタートンには哲学乃至神学的逆説という真似られない武器があった。カーもちょいちょい逆説をやって見るけれども、チェスタートンほどの深さがない。又、長篇となると逆説だけで持ちこたえる訳には行かないのだね。そういう所からカーの作には破綻が出来てくる。いくら架空にしても、動機の点で何となく物足りない所がある。この目的を果す為には、これほど廻りくどい手段をとらなくてもよかったのではないかという、現実的な不満が介入する隙が出来てくる。チェスタートンは同じ変な動機でもそういう隙を与えない。逆説の手で押しきってしまう。カーの方は長篇だから、どうしても隙が出来やすいという不利な点があるにはあるが、やっぱり根底の実力が違っているのだろうね。しかし、一方では、カーはチェスタートンのやらなかったことをやろうとして、一応成功しているんだよ。チェスタートンの短篇はヴァン·ダインやノックスの提唱したフェア·プレイというものは殆んど顧慮していない。つまり、データを読者の前に揃えて、それによって読者の方でも謎解きを競う気持を起させるというような組立てにはなっていない。謎小説好きで、若しチェスタートンに不満を感じる人があるとすれば、それは恐らくこの点から来るのだね。ところが、カーはチェスタートンを踏襲しながら、出来るだけフェア·プレイをやろうとした。それも長篇だから、そうしないではいられなかったのでもあるが、なるべく多くデータをさらす普通の探偵小説の形を取ろうとした。だから、チェスタートンを物足りなく思う謎主義者でも、カーなら面白がれるという所があるんだね」

「カーがチェスタートンに影響されていることはカーのどの作を読めば、一番よく分るでしょう」

『To Wake the Dead(『死人を起す』)だね。この題は死者を呼び起すというような意味だが、何か出典のある言葉かも知れない。この小説は私は二度読んだ。それでも何だか納得の行かない所があるんだね。筋は非常に面白いけれども、どこかしら合理主義にはずれたような書き方がしてある。そこで、ははあ、チェスタートンだなと感じたんだよ。カーはチェスタートンそのままの味を長篇で出そうとした。しかし、その点は失敗したという感じなんだね。そういうモダモダしたものが、この作に一番よく出ているんだ。ほかの例でいうとDeath-Watch(『死の時計』)にやっぱりそういう所がある。これも二重の意味があって訳しにくい題だが、大時計の針を短剣の代りにして人を殺す話なんだ。これがやはり、何となく合理的に割り切れないような書き方になっている。チェスタートンのはちゃんとした逆説なんだが、今云ったカーの二つの作は、合理主義ははずれたが、逆説にもなり切っていないというような分りにくさなんだよ。それを私はチェスタートンの影響だろうと感じるのだ。概して云うとカーの本名で書いた初期のものにそういうのが多く、ディクスンの方はもっと分り易い普通の書き方なんだね。それだけに、はっきり割切れすぎて、通俗な感じを免れない」

「いつか、あなたは『幻影城通信』にカーの主人公の探偵の原形がチェスタートンの小説の中にあるというようなことを書いていましたね」

「そうそう。それは『師父ブラウンの秘密』の中の一篇で『飛魚の歌』というのだよ。この短篇に登場する一人物が、カーのフェル博士、ディクスンのメリヴェール卿とそっくりなんだ。お尻が椅子にはまらないほど太っていて、蒙古人のような容貌、満月のように丸くて大きな顔、いつも眠むそうな目をしていて、仏陀の像(大仏)を連想させる顔。その人物はなかなか偉い学者なんだが、この風采の形容語がフェル博士やメリヴェール卿にそのまま使われている。カーはチェスタートンのこの人物が深く印象に残っていて、自分の名探偵を作る時に、意識的にか無意識にか、この人物を持って来たという感じなんだね。私の邪推かも知れないが、どうもそんな気がする。もっと別の例を云うと、『インクレデュリティー(注:ブラウン神父の不信)』の中の『金十字架の呪い』はカーの『死人を起す』の奇抜な殺人手段に影響を与えそうだし、同じ集の『翼のある短剣』の雪中の足跡トリックはカーの『修道院殺人事件』に影響を与えているように思われる。又、『金十字架』の原題The Curse of the Golden CrossはカーのThe Curse of the Bronze Lampとそっくり同じ調子だ。カーはこれは意識してチェスタートンの題の口調を真似たんだね。そのほかにもチェスタートンとの類似点がいろいろあったようだが、今思出せない」

「いや、その辺で結構ですよ。それでは次に、あなたの読まれたカーの三十冊の中で、何が面白かったかというようなことを、聞かせてもらいたいものですね」

 

作品

「そうだね。ちょっと面倒だけれど、私の読んだ作品の表を書いて見よう。そして、私の感じた順位をつけると、はっきり分るだろうと思う」

 

『帽子収集狂事件』(33)

『プレーグ·コートの殺人』(34)(密) (注:『黒死荘の殺人』)

『皇帝の嗅煙草入れ』(42)

『死人を起す』(38)(密) (注:『死者はよみがえる』)

『ユダの窓』(38)(密)

『赤後家の殺人』(35)(密)

 

「これだけがまず第一位だね。括弧の中の数字は出版の年、一九を略したものだよ。(密)とあるのは密室殺人のトリックの使われているものだ」

「なるほど、このうちの四つが昭和二十五年までに訳されていますね。(密)の印のついていないのが二つあるようですが、カーも〈密室〉でない作を書いているのですか」

「それはあるんだよ。しかし、どれも〈密室〉以上の不可能興味が創案されている。殊に三番目の『皇帝の嗅煙草入れ』は物理的に絶対に為し得ないような不可能を、不思議な技巧によってなしとげさせている。これはカーが処女作から十二年たっても、トリック小説に少しも飽きず、旺盛な創作慾を持ちつづけていた事を証する傑作だよ。それは、次に、私の好みで第二位に属する作品を書いて見よう」

 

『三つの棺』(35)(密)

修道院殺人事件』(34) (注:白い僧院の殺人)

『読者よ欺かるるなかれ』(39)(準)

『夜歩く』(30)(密)

『曲った蝶番』(38)(準)

『死の時計』(35)(準)

アラビアンナイト殺人事件』(36)(準) (注:『アラビアンナイトの殺人』)

 

「(準)と記したのは〈準密室〉の意味で、文字通りの密室ではないが、いろいろな情況によって密室状態が構成されているものだ。第一位の諸作と第二位の諸作との間には大きな開きがあるわけではない。人によっては第二位の内に最高の傑作があると考えるかも知れない。『三つの棺』などは、私なんか戦前に拙い訳で最初読んだので印象が悪くなっているが、はじめに原本で読んでいたら、恐らくもっと高い所へ置いただろうと思う。そのほかのにも皆それぞれに面白い。第一位の方へ入れてもいいのだが、ま紙一重の差で第二位に入れたというような感じなんだね。最後『アラビアンナイト殺人事件』はユーモアの度が強くてファースと云ってもいい作だが、飛んでもない思い違いから生じた滑稽ドンチャン騒ぎそのものに不気味なミステリーが含まれているというような、別の面白さがある。ヘイクラフトの『誤楽として殺人』にはカーの代表的作品としてこれを挙げ、ディクスンの代表作として第一位に記した『プレーグ·コート』を入れてる。だから私はこの『アラビアンナイト』を大いに期待して読だのだが、それほどに感じなかった。私の好みでは第二位の一番最後に置く程度のものだった。しかし日本にもヘイクラフトとじようにこの作に感心する人もあるだろうから、ちょっと断っておくわけだよ」

「この第二位の表の中には、〈密室〉でも〈準密室〉でもない作はたった一つしかありませんね」

「そうだよ。この『修道院殺人事件』は『皇帝の嗅煙草入れ』や『帽子収集狂事件』と同じように、密室以外のトリックとして非常に優れたものの一つだ。足跡トリックだが犯人の足跡が全然ないという不思議を、変なメカニズムなんか使わないで、心理的に巧みに構成している。私はこれはカーの発明したトリックの内で最も優れたものの一つだと考えているんだよ。……では次に私の第三位の作品を記して見よう」

 

『孔雀殺人事件』(37)(密) (注:『孔雀の羽』)

『弓弦城殺人事牛』(33)(密)

『一角獣殺人事件』(35)(準)

『嘲るものの座』(42) (注:The Seat of the Scornfulのタイトルはwikiにはなくて、1941年Death Turns the Tableで表記。邦訳は『猫と鼠の殺人』)

『毒殺魔』(44)(準) (注:『死が二人をわかつまで』)

『メッキの神像』(42) (注:『仮面荘の怪事件』)

『絞首台の秘密』(31)(準)

Seeing Is Believing(41)(準) (注:『殺人者と恐喝者』)

『蠟人形館の殺人』(32)(準)

『盲目の理髪師』(34)

 

「ここに並べたものは、第一位、第二位に比べてちょっと見劣りがする。まあカーの中級作品という所だね。しかし、中級と云っても、読み出したら巻をおく能わざる魅力を持っている。どれにも飛びきりの不可能性とサスペンスがあるからだ。しかし、解決がそれに比べて何となくあっけないというような不満があるんだね。その為に中級作となったわけだ。この内風変りなのは、第三の『一角獣殺人事件』で、三人一役や一人二役が二重三重にこんぐらかって、実に奇々怪々を極める。又、殺人方法が、一角獣という怪獣の角で刺されたような傷口を残すという不気味なもので、トリックもなかなか考えた奇術が使われている。カー趣味を遺憾なく発揮したもので『夜歩く』と同じように、あくどすぎる所もあるが、それだけにカーの体臭を存分に味わうこともできる。あとから二番目の『蠟人形館の殺人』も非常に風変りだ。タッソー夫人の蠟人形館のような見世物の中で行われる殺人で、人形の殺人場面と、実際の殺人とのこんぐらかる不気味さだね。私の生人形趣味とソックリ同じなので、大いに同感したが、やっぱりあくどい方の作だね。トリックは大したものではない。それから最後の『盲目の理髪師』はカーの幾つかのファース風作品中で最もファース味の濃いものだ。八笑人のドンチャン騒ぎだよ。ライス夫人のファースなどよりもずっと激しいものだ。そして、ライスのように通俗ではない。カーはチェスタートンの脈を引いているだけに、ファースにもライスなんかより深い皮肉味がある。……さて、最後に私の考えではカーの作中最もつまらないと思われるものを第四位として記して見る。

 

『髑髏城』(31)

『毒のたわむれ』(32)

『剣の八』(34)

『パンチとジュディ』(37)

『青銅ランプの呪』(45)(準)

『別れた妻たち』(46)

 

これで二十九冊、このほかに短篇集を一つ読んでいる。

The Department of Queer Complaints.(40) (注:『カー短編全集1不可能犯罪捜査課』)

だよ。この第四位の長篇は、いずれも怪奇性は充分あるので、一応読ませるけれども、探偵小説としての創意が乏しいんだね。この内『パンチとジュディ』と『別れた妻たち』の二つがファースだが、前に挙げたファースに比べて、面白味が足りないんだね」

「フーンこれはどういう意味ですか。あなたがつまらないという作品は、殆んど全部〈密室〉ものじゃないのですね。〈密室〉ずきのあなたには、密室でないのは皆つまらなく見えるんじゃありませんか」

「なるほど偶然〈密室〉ものがないね。しかし、君の邪推するようなわけではないよ。私はなんだか〈密室〉宣伝屋みたいに云われているけれど、本当は決してそうじゃない。〈密室〉ばかりと取組むなんて、カーに於て初めて許されることで、みんながそれを真似たって仕方がない。日本の懸賞応募作などに〈密室〉の多いのには、私だってウンザリしている。〈密室トリック〉は出つくしているし、読者の方でも食傷しているので、本当は一番むつかしいのだが、そこまで考えない素人には、〈密室〉というものが一番飛びつきやすいんだね。一番むつかしいものが一番易しく見えるんだね。こういう事はほかの芸能にもあるんじゃないかな。出発点であると同時に一番奥だというようなものね。例えば琴の“六段”なんか初歩でも習うし、名人でも苦労するというような。別の例で云えば、釣りの方で、一番易しいのも鮒つりだが、一番味の深いのも鮒つりだというあれね。ところで、この第四位の作は、〈密室〉がないからつまらないのでなくて、〈密室〉と否とにかかわらずトリックの創意がないからつまらないのだよ。〈密室〉作家のカーは、〈密室〉でないものを書くと色あせて見えるということも考えられるが、必ずしもそうじゃない。前にも云った通り、『皇帝の嗅煙草入れ』『帽子収集狂事件』『修道院殺人事件』など非〈密室〉の傑作があるんだからね」

「わかりましたよ。それで、カーの短篇集はここに書かれた一つだけなんですか」

「私は一つしか読んでないが、もう一つ短篇集がある。私の読んだ方の短篇集には十一の短篇が入っているが、小型ながら夫々トリックの創意があって面白いけれど、皆ごく短い作なのであっけない。カーは無論長篇作家で、短篇はまあ余技といったところだね。短篇では〈密室〉が案外少ない。十一の内〈密室〉〈準密室〉各一篇だけで、あとは〈足跡トリック〉〈二つの部屋トリック〉〈隠し場所の盲点トリック〉〈一人二役トリック〉〈偽死トリック〉などだが、それらに皆小粒ながら創意があるんだね」

「これで、あなたのお読みになった三十冊と、そのあらましのことは分りましたが、まだ読まれない十九冊の内に、非常な傑作が残っているようなことはありませんか」

「あるかも知れないが、大したことはあるまいという予感がしている。ただ一つ是非読みたいと思っているのは、『火刑法廷』(37)だよ。コロラド大学の助教授ジェームス·サンドーが大学図書館の備えるべき探偵小説の表を発表していることは、ずっと前に『幻影城』なんかで紹介しておいたが、その表のカーとディクスンの項にこんな風に書いてある。

【カー】『火刑法廷』(1937)但しエラリー·クイーンはこの作を正しい意味の探偵小説に非ずと為し、アントニー·バウチャーは普通文学と探偵小説の“境界線上”の作品と見ている。『三つの棺』(1935)カーのあまたの密室小説中最も研究的作品(註『密室講義』を含むことを意味する)又、リリアン·デ·ラ·トーレはThe Murder of Sir Edmund Godfrey(1936)を、イギリスの実際犯罪事件をモデルとして、見事に綿密に構成した作品と為している。

【ディクスン】『赤後家の殺人』(1935)と『ユダの窓』(1938)共にメリヴェール卿によって解かれる〈密室〉パズル。

「これは原文のままを読んだので、この表は長い説明文のついている所もあり、ただ作品名を記しただけの項もあるという書き方なのだ。この表に対して、ヘイクラフトは次のように感想を述べている。

“私は数年前カーの代表作としては『アラビアンナイト殺人事件』を、ディクスンの代表作としては『プレーグ·コートの殺人』を挙げておいたが、その後読直して見ると、結局次のように変えたくなった。即ちカーの代表作としては『曲った蝶番』(1938)これはフェル博士の優れた探偵演技の中で最も想像力に富む傑作である。ディクスンの代表作としては、『ユダの窓』(1938)これはサンドーも認めているが、メリヴェール卿の業績中最も輝かしきものである”

つまりヘイクラフトが、サンドーの表に対して、私ならこれを選ぶと抗議をしたものなんだね。この二つの選択は、前に示した私の優劣表と必ずしも一致していないが、それだからこそ、大いに参考に資する所があると思うので、こうして読んで見たわけだよ。ところで、サンドーがカーの項に記した二つの作を私はまだ読んでいない。『ゴッドフレイ卿』の方は実際事件を扱ったものだから、文献学的には読んでおきたいけれども、フィクション第一の立場からは次に廻してもいい。それよりも『火刑法廷』は普通文学と探偵小説との境界線上の作で、しかも名作らしいのだから、これは是非読みたい。ただ本が手に入らないだけなんだよ。それから、評判によると最近作の『疑惑の影』(1949)がちょっといいものらしいんだね。これも読みたいものの一つだよ」

[後記]『疑惑の影』は一読したが、大したこともなかった。『火刑法廷』は非常に面白かった。それについては後にしるす。

「どうも食欲をそそりますね。僕もカーが原文で読みたくなって来たな。ところで、作品のことはそれで分りましたが、今度はトリックですよ。カーの発明したトリックについて、蘊蓄を傾けてもらえませんかね」

「君は欲ばっているね。トリックの分析となると、今までの二倍も三倍も喋らないとけりがつかない。それに、トリックの種あかしは君の為にも、しない方がよさそうだね。私は探偵小説全体のトリックを分類して、一々の作品名を記さないでトリックの内容を網羅した〈トリック論〉というものを書く下心を持っているが、それならば、読む方でも気がつかないからいいけれども、カーの三十冊の作と限定して、そこに使われているトリックを話すと、たとえ作品名はふせておいても、今度カーを読む時にすぐ気がついてしまう。そうなっては手品の種あかしを聞いてから手品を見るようなもので、面白さが半減してしまう。トリック論をするにしても、なるべくそういうことのないように用心してやりたいんだよ。だから、今日は時間もないのだから、一つ一つのトリックを具体的に話すことはやめて、この話のはじめの方で約束しておいたカーの使ったオカルティズムの種類と、トリックの種類、内容ではなくて種類だけをごく簡単に話して見ることにしよう」

「まあそれで我慢しますよ。僕も電車がなくなるから、あまりゆっくりしていられない。それにしても、〈トリック論〉というのを早く書いて貰いたいですね。あらゆるトリックを網羅するなんて、そんなことが出来るんですか」

「いくらたくさん探偵小説を読んだって、宙で覚えているわけには行かない。一つ一つメモを取っておかなければ出来ないことだよ。だから非常にむつかしい。私のような物好きな特志家(ママ)でないと出来ないことだね。私は探偵小説を書きはじめた頃から、若しそういうトリック論が出来たら面白いだろうと考えていた。作家の参考にもなるし、単なる読物としても一応面白いわけだからね。しかし、直接の動機はカーの『三つの棺』の中の〈密室講義〉なんだよ。あれは実によく出来ている。あらゆる〈密室〉トリックが簡潔に網羅されている。西洋探偵小説を余り読んでいない人にはあの中にどんなに多くの作品の筋が含まれているかということが、よくわからないだろう。それにカーは今云った種明しにならないようにと注意して、作品名はごく少ししか挙げていないから、卒然として読むと大したものにも見えないのだが、しかし、英米の代表的な探偵小説を読めば読むほど、あの〈講義〉の真価が分ってくる。書名を記さないで、それとなく語られている作品が実に多いんだね。密室トリックというものが、殆んど余すところなく系統立てられている。しかし、この本の戦前の邦訳は駄目だよ。意味を取り違えている所が非常に多くて、お話にならない。私なんかも訳を読んだ時は、大して感心しなかったが、原作ではじめて本当のねうちが分ったのだからね。私はこれに感心したので、〈密室〉だけでなくて、探偵小説のあらゆるトリックについて、こういう講義を書いたら面白いだろうと考えたんだ。そこで、その下ごしらえとして、戦後英米の探偵小説を読むにしたがって、そのトリックのメモをとっておくことにした。それが今では長篇短篇合せて八百ぐらい出来ているんだよ。八百ぐらいでは、百年間の探偵小説の九牛の一毛だが、しかし、私のはでたらめに読んだのではなくて、定評のあるものだけを心掛けて読んだのだから、これだけでトリック講義を書いても、そう恥しいものではないと思っている。……余談はさておき、それでは、まずカーの使ったオカルティズムの種類を挙げて見よう。時間がなくなったから、大急ぎだよ」

 

怪奇趣味とトリック

「心霊現象は多くの作に出てくるが、降霊術そのものをテーマとした作品は今度訳された『プレーグ·コート』だね。それから『パンチとジュディ』はテレパシーが主題になっているし、『読者よ欺かるるなかれ』にはアフリカ蛮地の呪医の子孫と称する怪人物が現われ、テレフォースという心霊力によって、遠距離殺人をやる。無論これは出発点の怪奇の為に登場する人物で、真の殺人手段は純科学的なんだよ。そのほかの魔術的なものでは『孔雀殺人事件』の〈十箇の茶碗〉という神秘宗教の儀式、『剣の八』のタロク·カード(ママ。一般には「タロット・カード」)という不思議なトランプなどが目立っている。タロク·カードについては『魔術と探偵小説』(拙著『随筆探偵小説』に収む)という随筆にも、書いておいたが、神秘的な運命判断の古代トランプの一枚の絵で、八本の古風な短剣が矢車型に描かれ、その中央に横線があって、水面を現わしてある。このカードが被害者のそばに落ちていて、謎を深めるわけだ。それから『青銅ランプの呪』にはエジプト古墳発掘の崇りによる人間消失の奇蹟が取扱ってあるし、『三つの棺』には魔術研究家と吸血鬼伝説と黒魔術が出て来るし、『死人を起す』には死者再現の神秘が描かれている。いずれも結論は科学的なんだが、一応えたいの知れない魑魅魍魎がモヤモヤと現われて、読者を五里霧中に彷徨せしめるのだね。手品のことをマジックというくらいだから、手品にも昔は大いに魔術性があったものだが、そういう魔術性のある大奇術師を主人公とする作品が二つある。それは、『メッキの神像』と『髑髏城』だ。題名からしてまがまがしいものだね。それから、手品や魔法と親類筋の興味である迷路というやつも、如才なく使われている。『曲った蝶番』の主題は樹木で出来た迷路の中の殺人なんだ。

次に、魔術というよりも怪談に属するものでは、『一角獣殺人事件』の一角獣という怪物、『夜歩く』の人狼の恐怖、『弓弦城殺人事件』の甲冑怪談。鎧の籠手が空中を漂ったり、弓弦が人の首にまきついたりする。怪談の内では、人形怪談に属するものが最も多く取入れられている。タッソー夫人の残虐蠟人形の味だね。これの一番濃厚に出ているのは先にも云った通り『蠟人形館の殺人』だが、そのほかにもたくさんある。『曲った蝶番』では等身大の娘人形が、独りで動き出したり、物を云ったりするし、『毒のたわむれ』では、ローマの狂王カリギュラの大理石像が怪談的に取扱われ、『別れた妻たち』では、第二次大戦当時、実弾射撃の的に沢山のドイツ兵人形が使われたが、その人形の一つが本物の死体に変っていたという怪奇が描かれている。

魔術、怪談と並べて見ると、次に残虐が来る順序になる。所謂グルーサムだね。私も昔はグルーサムだといって甲賀(注:三郎)君なんかから非難されたが、私が子供っぽくやったグルーサムを、カーはもっと大人らしくやっている。グルーサムの親玉は処女作の『夜歩く』だろう。剃刀で自分の妻を殺さないではいられぬという殺人狂が主人公で、この男が狂人のくせに悪智恵があって、自分の所から逃げ去った妻が、新らしく結婚しようとする男を殺し、その男に化けて、結婚式にのぞむという放れ業をやる。お化けから逃げ出して、助けて下さいとすがりついたその人が、やっぱりお化けであったというあの何とも云えない怖さだね。又、その男の死骸を地下式の壁の中へ塗りこめてしまう。『アモンチリャドーの樽(ママ)』だよ。『蠟人形館の殺人』は舞台が残虐人形の見世物だし、そこで行われる殺人も残虐を極める。『死人を起す』の犯人は大トランクの蓋で被害者の首をしめ殺し、この異様な殺人具が古代刑具の『鉄の処女』にたとえられている。『死の時計』では大時計の針で人を殺す。

カーはギロチンの残虐味と怪談性が大好物らしいね。トランクの蓋も一種のギロチンの別名なんだね。あの赤後家の部屋にある古い家具の類にもギロチンの精がこもっているわけだ。『絞首台の秘密』がギロチンを主題としていることは云うまでもなく、おもちゃのようなギロチンが、密室の中へひょいひょいと現われる不気味さ、それから絞刑吏の執念。又『パンチとジュディ』では窓のガラス戸の下部に剃刀をとりつけて、これをギロチン窓と名づけるなど、カーのギロチン趣味は到る所に現われている。カーは謎の不可思議性を濃厚にする為に、〈密室〉などの物理的不可能のほかに、こういう魔術と怪談と残虐恐怖のくさぐさを、まるでガラス絵のような不気味な色彩で、作品の中に盛り込んだわけだね。

まだ終電車は大丈夫かね。どうもいそがしいな。……ところで、今度はトリックの方だが、詳しく話しているひまはないから、カーが使用したトリックの種類を大ざっぱに拾い出して見よう。カーが一番多く使ったトリックが〈密室殺人〉であることは云うまでもない。私の読んだ二十九の長篇の内、純粋の〈密室〉ものが八篇、〈準密室〉が九篇、密室以外のトリックが十二篇という割合になる。しかし、この十二篇のうちにも、傍筋には密室に近いような謎が屢々出て来るので、計算の仕方では、もっと〈準密室〉の作品を多くすることも出来るわけだ。先ず全作品の六、七割が〈密室〉乃至〈準密室〉と考えて間違いなさそうだね。

探偵小説一般について云うと、使用度の一番多いのは〈一人二役〉乃至〈替玉〉トリックだが、カーはそういうトリックも、無論使っているけれども、それよりも〈死体移動〉のトリックの方が多いくらいだ。このトリックは一般にはそれほど多く使われていないので、これがまたカーの特徴になるわけだね。私の読んだうちでは、〈死体移動〉を中心トリックとした長篇が五つある。その内二つは犯人が殺した死体を別な場所に運んだ為に、難解な謎を生むもの。一つは犯人が死体を密室の中へ投げ込んで、〈密室殺人〉の情況を作り出すもの。これは実に奇抜なトリックで、ばかばかしいような所もあるが、種あかしされるとアッと驚くことはたしかだね。君はどうして密室の中へ死体を投げ込めるかと反問するだろうが、それを説明する為には長く喋らなければならない。兎に角あるシチュエイションを想定すると、それが出来るんだよ。最後の一つは、ピストルで頭を打たれた被害者が、数町離れた場所へノコノコ歩いて行くというのだ。そのためにまるでわけの分らないことになってしまう。そんな馬鹿なことがあるかと云うだろうが、カーはその反問に先手を打って、ちゃんと実際の事件の例を示している。いつどこそこにこういう実例があったと、文献を示されては一応納得せざるを得ないからね。ヴァン·ダインの『ケンネル殺人事件』にも同じようなトリックが使われているが、あれは刃物で胸部かなんかをやられたのだから、被害者が歩くことも全く不可能ではないだろうが、ピストルで頭をやられてから歩くというのは、想像の外だよ。つまりヴァン·ダインの上を行ったわけだね……これはいけない。トリックの内容には触れないと断っておきながら、つい喋ってしまった。では、大いそぎであとを続ける。

一人二役のトリックが四つ、一人二役というよりも替玉トリックと名づけた方がよいものが一つある。やり方は皆違っている。それから〈三人一役〉というずば抜けたやつが一つある。三人の人物が一人の凶悪犯人に化けて、事件がメチャクチャにこんがらかる話だ。一人で八本の剣をお手玉にとる曲芸があるね。あれを見ているような味だよ。カーの小説はある場合には、手品文学というよりも、アクロバット文学と名づけた方がふさわしいとさえ云えるね。

それから〈音響〉トリックを使ったものが四つある。〈音響〉トリックというのは、ヴァン·ダインの『カナリア殺人事件』クリスティーの『アクロイド』にある録音器を使って声のアリバイを作る方法や、リースの『闇の手』のように実際の殺人の後にピストルの偽音を聞かせてアリバイを作るやり方だね。カーはそれを、いずれも従来とは違った方法で使っている。又、音響ではないが、〈ピストル固定〉トリックの長篇が一つある。これはルブランなどよく使ったピストルを固定させて犯人がそこにいるように見せかけ、実はとっくに逃げてしまっているという至極単純な欺瞞だが、カーはこれに複雑な技巧を加えて、長篇を支えるだけのトリックに仕上げている。

もう時間がないね。……それじゃ、あとを二分で話そう。項目だけを挙げるよ。〈不具者犯人〉トリックが二つ、〈電気殺人〉の実に妙なやつが一つ、〈足跡〉トリックの傑作が一つ、〈鏡〉トリックが一つ、〈岩塩弾発砲〉のトリックが一つ、それから、あらゆるトリックの内で、不可能興味最大のもの……いや止そう。これは最近(昭和二十五年)翻訳されることになっているが、ちょっとでもトリックの性質を話したらすぐ感づかれてしまうようなものだから、これは止した方がいい。大ざっぱに云って私の読んだカーの長篇のトリックの種類はまあこんなものだね。

〈密室〉八篇と〈準密室〉九篇については説明しなかったが、これも一つ一つ着想が違うのだからカーのトリック発明力は大したものだ。私の考えでは、探偵小説史で、トリック発明量最大の作家はチェスターン、その次がカーとクリスティーだね。クリスティーはカーに劣らぬ発明家で、しかもカーよりもずっと早くから書いている。その内またクリスティー問答をやりたいものだね」

「ありがとう。では、これで。今からじゃ駅まで駆け足ですよ。おやすみなさい」

「さようなら」

 

(「別冊宝石」昭和二十五年八月「カー問答」)

 

[追記]昭和二十九年五月、未読であった問題作『火刑法廷』は一読して、非常に面白かったことをお知らせしておきたい。この作の表題は十七世紀パリに実在した残虐な法廷の綽名で、そこで裁かれたものは多く火刑に処せられたところから、〈バーニング·コート〉即ち火刑法廷と呼ばれていたそれを表題としたものである。余白がないので意を尽さないが、この作は私の好みでは、本文に記した第一位の作品群に加えてもよいと思う。それほどカー得意の不可能興味が濃厚で、サンペンスは飛びきりである。又、本文中にこの作を“普通文学と探偵小説との境界線上の作”と記したが、これは私がバウチャーの評言を早吞込みしたもので、そういう特別の性格は少しもない。やはり極度の不可能を提出して、論理的に解決してみせる本格探偵小説である。『続幻影城』に収めた時の追記)

 

註(ミステリマガジン編集部) 本篇は江戸川乱歩著『海外探偵小説·作家と作品』から再掲載したものであるが、欧文による原題の表記を一部邦訳題名で表わしたところがあることをお断わりしておく。原題は著作リスト(注:雑誌に掲載。本ページでは割愛)を参照されたい。

 

 

ミステリマガジンNo255,1977年7月号

 

注 作品タイトルは1977年当時に邦訳されたもの。そのあとに2022年現在の邦訳タイトルを注で加えた。

 

 

<参考エントリー>

odd-hatch.hatenablog.jp

最相葉月「絶対音感」(新潮文庫) プロの音楽家になるのに必須の要件ではないのに、日本では戦前からありがたがられている。

 絶対音感は、ある音を聞くとそれに対応する音の名前を瞬時にあてることができるという能力。絶対音感をもっていると、一度フレーズを聞いただけでピアノで演奏できたり、楽譜と間違っている音をあてたりできるという。さらには聞こえる音がドレミで流れるばかりでなく、自然音でもどの音かを意識するという。また、和音や調性などから色を想像することもあるという。なるほど、指揮者やピアニスト、作曲家には、スコアに書かれた音と間違った音を出すと瞬時に指摘したり、ピアノの鍵盤をでたらめに押したときに出てきた音をあてたりすることができるという。われわれは超能力のように思えるが、その能力は少数がもともと持っているだけではなく、幼少期のトレーニングによって獲得することができるという。

小澤征爾が晋友会合唱団を率いてベルリンで演奏と録音をしたとき、この合唱団がピッチを正確にとることに関係者は驚いたという。本書に秘密が書かれていて、曲の前に絶対音感の持ち主が合唱団にだけ聞こえるように基音を出していたのだって。ほかの合唱団員はそれに合わせて歌ったのだった。)


 

 

 絶対音感の存在を知って(きっかけがパステルナークとスクリャービンの出会いというのがクラオタにはうれしい情報)、音楽家やその関係者にインタビューすると、絶対音感の話をそらすという。絶対音感はプロにはあればまあいいかという程度の能力で、ときに障害になることがあるという。すなわちある周波数を「ド」の音と認識してしまうと、ピッチの違う場合(オケによって異なり、古楽器は低い)に気持ち悪く聞こえ、移調することが困難になる。青柳いづみこ 「ピアニストが見たピアニスト」(中公文庫)によると、老齢で聴力が衰えても同じようなトラブルが起きて演奏が難しくなるという(リヒテルラローチャら)。それは訓練や慣れで克服できるものであるらしいが、克服すると今後は「音楽」をどう作るかという深刻な問題に直面し、絶対音感は「音楽」そのものを規定するのではないということになる。
 では、なぜ絶対音感はプロの音楽家に必要になると思われているか。日本特有の思い込みであるらしい。過去をたどると、20世紀初頭に西洋音楽を日本に移植しようとしたものが絶対音感を育成する教育システムを作った。成果は現われ、ことに軍隊で採用されたので(敵艦、敵飛行機等の識別用)、日本の教育界に普及した。戦後、民間で音楽教育が再開したときにも採用された。斉藤秀雄、吉田秀和らの音楽教室であり、桐朋学院であり(小澤征爾山本直純らが生徒)、ヤマハ音楽教室である(その他有象無象の幼児育成プログラムで採用)。西洋芸術を把握しようとするとき、数値化・要素化できるところで選択し、習熟するためのプログラムを作る。技術的には完ぺきにできるようになり、どんな曲でも演奏できるようになる。その成果は小澤征爾中村紘子らに象徴されるだろう。でも、技術的な問題はないが、でてきた音は「音楽」には程遠い。小澤が「キーを出しすぎる」と注文され、中村が「ハイフィンガー奏法を直しなさい」と注意されるような事態を招いた。日本の近代化は西洋のパテントを買い取り、改良して大量生産品を安く製造するところから始まったのだが、それと同じことが芸術理解でも起きていたのだ。21世紀でも絶対音感を学ばせる状態は、過去の成功にしがみついているように思える。
(そして、21世紀には中国や韓国育ちの人たちが西洋で目立つようになっている。)
 自分が関心を持ったのはこのあたり。他には、音楽を科学する研究について。いろいろなアプローチをしているが、やるほどに科学は音楽に近づけないというのが現状。

 

 

 本書の隠れた主人公は五嶋節。当時売り出し中のみどりと小学生の龍にバイオリン教育をするステージママ。節は子供らにスパルタ教育を施し、みどりの成功後、子離れして心が平穏になる。なぜ彼女に憑き物がついたか、どうやって落としたか。子供への過干渉をどうやって克服するか。これは俺の関心の外なので、ここまで(まあ、絶対音感を持たないみどりが世界的に成功し、持っている龍がローカルタレントなのはなぜかというくらいの興味はある)。

 

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 いろいろなことを盛り込みすぎ。それに「わたし」がたくさん現れて、逡巡する心理や葛藤がかかれる。日本のノンフィクションにはよくある手法だが、問題をぼかしてしまうのではないか。五嶋家族のことは別書にして、3分の2に圧縮すればよかった。

 

小澤征爾/広中平祐「やわらかな心をもつ」(新潮文庫) リヒャルト・シュトラウス「英雄の生涯」第3部「英雄の戦場」。現在進行中の仕事を抱えている日本人のいささか偏狭で屈折したプライド。

 リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」になぞらえれば、第3部の「英雄の戦場」に当たる。第2部「敵」第3部「伴侶」に当たる著書は(たぶん)ないが、小澤征爾の半生にてらせば、N響事件が「敵」の章だろうし、その後バーンスタインカラヤンに教えを乞うてボストン響の音楽監督に就任するのが「伴侶」になるだろう。個人的にも結婚して、本書がでた1977年には息子と娘がいる。
 広中平祐は小澤の数年年上。パリでであい、アメリカで再会した(いきさつは、小澤征爾「ボクの音楽武者修行」(新潮文庫)に書いてある)。その後は互いに忙しくなったが、連絡は取りあっていた。広中は1970年にフィールズ賞をとり、小澤は1973年にボストン交響楽団音楽監督につく。どちらも日本人としては初の栄誉となった。40歳前後の年齢で世界的な注目を、しかも日本の国外で得るというは稀有な存在だった。この二人を知るテレビプロデューサーが二人の対談を企画し、テレビ番組にし、かつ本にまとめた。

 二人の壮年期であり、創造の意欲の高い時期なので、まずは目先の仕事に集中しなければならない。広中は教授職として教育と研究をするし、小澤はボストン響のみならず世界中のオーケストラの客演をこなすために勉強しなければならない(実際、小澤はラヴェル管弦楽曲全集やマーラー交響曲全集の録音を開始するなど、立て続けにレコードを出していくのだった)。そうすると、目下頭の中を占有しているのは個別の問題であり、それは話を広げるわけにはいかないだろう。そうすると、彼らが語るのは自身の半生となる。
 共通するのは、日本をでて徒手空拳で西洋と対峙するという境遇であり、組織の後ろ盾がなく個人の才覚で世の中を泳いでいくために勉強するということ。そこで二人が共通する思いとして持つのは、「日本人」の特異性。もちろんそんなものはないのだが、「日本人には優秀な人がいる」「日本には西洋のような差別がない」といういささか偏狭で屈折したプライドだ。優秀な人が成功した人を鏡にすることで、このプライドが増幅されているのだろうと思う。彼らが差別を受けないのは、西洋社会のエリート階層に入っているから、というのは自覚しているようだが、その先まで考えを及ぼそうとはしない。
 自分らの勉強ぶりを他人に伝える仕事をしているので、話の多くはそこにいく。しかし現在進行中の仕事を抱えているとなると、どうすれば誤りなく波風立てずに伝えるかという方法を確立するまでにはいたらない。見出せるのは「情熱」だけであって、一生懸命熱意をもって伝えれば必ず通じるという思いのみ。二人とも人に好かれる性格であるのか、他人が耳を傾けようとする愛嬌があるのか、彼らの言動は人を巻き込んで成功を収めていく。その個人的な体験から彼らは教育に口を出す。およそ教育の現場には遠い人たちの意見は、日本の学校教育の改善には届かない。小澤や広中がふだん相手にしているエリート層とは異なる人たちには実現不可能なことばかりなのだ。にもかかわらず教育を口にするのは、彼らが成功したやりかたが普遍的一般的であると勘違いしているからだろう。成功した実業家が教育に一家言をもち、ときに校長になって現場をめちゃくちゃにするのに似ていると思った。
 いちおう二人の名誉を付け加えれば、彼らはエリート層に向けた教育を実践し成功を収めている(小澤の音楽塾であり、広中の大学総長職など)。
 二人の強みは欧米の仕組みを知っているので、日本との比較ができるところ。それを除くと、二人のエリートの自慢話を延々と聞かされるのにへこたれた。昭和一桁の親父が根性論で成功する物語は、昭和の時代には需要があったのだろうが、21世紀に読むと鼻白む。途中で読了をあきらめた。

 

小澤征爾/広中平祐「やわらかな心をもつ」(新潮文庫)→ https://amzn.to/3uIlKZD

 

 ここは覚えておこう。小澤征爾の本には出てこない。いずれも江口圭一「十五年戦争の開幕 昭和の歴史4」小学館文庫から。

「1910年の韓国併合後、日本の苛酷な支配を逃れて満州に移住する朝鮮人がふえ、(略)日本は在満朝鮮人を『帝国臣民』として、治外法権により領事館警察の手で取り締まる一方、土地商租権をもつと主張して、満州支配の助手に仕立てた。これにたいして中国側も在満朝鮮人日本帝国主義の先兵とみなし、迫害を加えた(P53)」
「(1930年の)万宝山事件はこうしたなかで発生した。間島からさらに長春方面に移住し、万宝山付近に入植した朝鮮人が、中国官憲の中止命令を無視して、日本の領事館警察の武力援護のもとに水田用水路工事を進めたことから、七月二日、日中の武力衝突事件がおこったのである。この衝突では中国側に若干の負傷者がでただけであったが、日本はこの事件を朝鮮人の反中国感情をあおるために最大限に利用した。万宝山で朝鮮人多数が被害をうけたという日本官憲のデマにのせられ、朝鮮各地で中国人排斥の報復暴動が発生し、一○○名以上の中国人が殺害される惨事となった。/万宝山の紛争で強硬論を唱えて朝鮮人を支援したのは、歯科医で満州青年連盟長春支部長の小沢開作であった。小沢はのち満州国協和会のリーダーの一人として活躍し、一九三五年三男が生まれると、心服していた板垣征四郎石原莞爾からその子の名前をもらった。ボストン交響楽団音楽監督として世界楽壇に雄飛する小沢征爾その人である(P53-54)」

 なお、小沢開作は以下のように証言しているとのこと。

“親父は「日本から満州に来た官僚の中で一番悪いのは岸信介だ」と言っていました。「地上げをし、現地人は苦しめ、賄賂を取って私財を増やした」と。だから、岸が自民党総裁になったときに「こんなヤツを総裁にするなんて、日本の未来はない」とハッキリ言った。”

  小澤俊夫氏(征爾の兄)が警鐘 「共謀罪で言論の息の根が止められる」2017/4/13

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