odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

小澤征爾「ボクの音楽武者修行」(新潮文庫)

 著者が26歳のときに発表。この若々しさやういういしさというのはまぶしいし、西洋に対する不安やおののき、それを凌駕しようという自信と努力、こういうのは戦前生まれの人(著者は昭和10年、1935年の生まれ)によくみられるものだ。とりあえずこの本で明かされた半生を点描すると
満州の歯科医の子供として生まれる。敗戦後、帰国したが、貧困生活をおくる。しかし、征爾を私立の音楽学校に送る、ピアノが家に常備されているなど教育費は十分に負担する。
・レオニード・クロイツァーの弾き振りをみて音楽を志し、桐朋学園高校音楽科に入学。斎藤秀雄門下で勉強。
・24歳のときに、少額の資金とバイクをもってフランスに渡航(当時付き合っていた女性の家(大企業の経営者だ)から資金援助を受けていたらしい、ふーん。だから外交官とか商社の支店長あたりとつきあえたわけだ)。
・翌年ブザンソン指揮者コンクールで優勝。さらにカラヤン指揮者コンクールで優勝。ニューヨークフィルの副指揮者に選ばれる。26歳で日本凱旋。バーンスタインNYPと一緒に帰国し、演奏会を持つ。他にN響や日フィルも指揮する。
 この本ではここまで。1960年前後の日本が貧しく、相対的に西洋が豊かで、それぞれの交流がなかなか難しかった時代。フランス到着までの航海の様子は、北杜夫「どくとるマンボウ航海記」、小田実「何でも見てやろう」などと共通する楽しさがある。見聞きしていない文物や風習、習慣、ものの考え方の違いにわくわくどきどきしていて、一方頼みは自分一人という緊張感。今でも何かのコンクールに入賞した人が30歳までに自伝を書くことがあるけど、ずっと波乱万丈。最近の類書だと、こういうカルチャーギャップへのとまどいとか、自信のなさとやぶれかぶれの破天荒とかが描かれないのだ。悪く言うとこの国の人は西洋慣れしてしまった。
 著書の中だと、現地の日本人を訪れては日本食を食った(この時代にヨーロッパに派遣されていた商社マン、外交官の涙ぐましい様子は堀田善衛「19階日本横町」に詳しい)とか、友人といっしょにスキーに行ったとか、パブとかホイリゲに入り浸ったと、遊んでばかりいたようだが、行間からは24時間スコアを眺めた、移動中の貨物船の中でフランス語や英語の会話ができるように独習した、など猛烈な勉強家であり努力家であることもわかるのであった。そういう禁欲的で勤勉な生活態度は彼のドキュメンタリーによく登場する。書かれていない勉強と努力をまず見誤らないこと。
 続いて彼の有利点は「斎藤メソッド」という指揮法を持っていたこと。この本によると斎藤メソッドは指揮の運動をいくつかに分類し、その組み合わせと体技でもって、意図を明確に伝える仕組みとのこと。そのため、本人は自分のテクニックで指揮できない曲はないと豪語し、フランス語も英語もまだ十分でなくてもコンクールに優勝した。体系化した斎藤秀雄とそれを完璧に会得した小澤征爾の成果であるわけだ。ここは議論の分かれるところで、「どんな曲」でもいくつかのパーツの組み合わせに分解し、明晰な体系に組み立てなおすというのはなんか日本の経済とか技術の方法に酷似している。その一方で、要素還元主義的な方法がネーションとかエモーションとかのその土地や個人に根差したある「こと」を排除するものにもなりうる。まあ難しいことを言っているようだが、小沢の指揮だと、音色を楽しむフランス音楽や個人的な付き合いのある邦人作曲家の作品はよいのだけど(ベストは武満徹「ノーヴェンバー・ステップス」の1989年ベルリンのライブ演奏、未CD化)、民族や土地のエモーションを充分に表出してほしいドイツや東欧の音楽はよくないなあということを言いたいだけ(最悪は2002年のウィーン・ニュー・イヤー・コンサート。あんな下品な指揮と音楽はみたことがない)。
 もうひとつは、西欧だと、コンクールに1位をつけた人に対してその後の面どうを一生懸命みること。コンクールの組織者だけでなく、外交官に、オケのマネージャーに、とたくさんの支援者が現れる。チャンスをものにしないとすぐに埋もれていくわけだが、チャンスをあたえることには惜しみない。当時は指揮者コンクールはいくつかしかなかったけど、今はいろいろあり、優勝者にはそこまでのアフターケアができているのかしら。30歳までコンクールに出続けることは珍しくないけど、そこで挫折したりチャンスが来なかったりすると、転職は大変なのではないか。と、コンクール落選者の行方を気にしてみた。
 あと気付いたことは、同世代に大江健三郎がいる。老年に入った二人の対談が別の文庫になっている。大江が26歳のときには「性的人間」「セブンティーン」などでセンセーションを起こしていた。大江は日本文学の伝統を継承するというより、翻訳された海外文学の文体で文学を書こうとしたのだった。まあ無理やり言えば、サルトルノーマン・メイラーなどを日本語に移植し、彼らの問題意識でもって日本と日本人を見ることができるかという実験をしていた。小沢も大江も「西洋」とか「ヨーロッパ」と正面から向き合い、同時に日本および日本人を意識するという立場を堅持することになった。その結果、数十年後にはそれぞれウィーン歌劇場の音楽監督ノーベル文学賞という世界的な権威を持つことになったわけで、彼らの個人的な努力は称賛されるべきにしても、その成果や仕事の方法にはまだまだ検証と見直しがいるよなあ、と凡庸な感想を持つ。たぶんそれは、どうしてこの国の製品は世界を席巻したが、この国の経営方法は世界標準にならないかという問題にもつながると思えるから。