聴衆である自分は、ピアニストをステージか録音メディアでしか知らない。そうすると、ピアニストから見えてくるものはそのときどきの演奏とそこに込めたイメージ。では、ピアニストがどのような準備をし、どのような葛藤をへてステージや録音スタジオに来たのかというバックステージのことが見えなくなる。芸術の成果は見えても、生活や練習はみえてこない。
この本では、著者は、自身がピアニスト。知り合いのつてをたどると、有名なピアニストの世話をしたり、レッスンを受けたという人に会える。ときには同業者ということでインタビューもすることができる。なので、この本のユニークなのはバックステージのことを明かにし、熟練した技術者が巧の技を解説してくれること。そのうえ、レコードのみならず、21世紀になって大量に出たDVD他の映像記録も参照する。しかも物故したピアニストでは彼の全録音(スタジオだけでなく、ライブの音源も)を聞くことができる。そのような豊富な取材源を使って、次のピアニストを語る。
スヴャトスラフ・リヒテル ・・・ 絶対音感のずれ、うつ、初等教育を受けなかった苦悩。
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ ・・・ 完璧主義と歌のせめぎあい。
(これは完ぺき主義時代の演奏。ここには堅苦しいけど、繊細な歌があると思う。1969年ヘルシンキのライブ。)
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マルタ・アルゲリッチ ・・・ 霊感の到来を待つこと、至高を繰り返す苦悩、ステージに上がる恐怖。
サンソン・フランソワ ・・・ 気まぐれ、トリップ。
ピエール・バルビゼ(とクリスチャン・フェラス) ・・・ 教師と演奏家のはざま。フェラスを襲うプレッシャー(自分の聞いた中ではフランクのバイオリンソナタでこのプレッシャーが著しい。この駘蕩風靡な音楽がガチガチに硬い音楽になっている)。
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エリック・ハイドシェック ・・・ 個性と時代の隔絶。故障。
いずれも20世紀後半の大ピアニスト。チケットは完売、レコードもロングセラーという人。しかし
「ここにとりあげたピアニストたちは、たぐいまれな才能に恵まれた神の子のような存在だ。そんな彼らが、どうして必ずしも幸せな演奏人生を歩んでいないように見えるのだろう」
という著者の感想がつらい。
なるほど、ステージと録音媒体だけからでは見えてこない困難や不安や恐怖が、ピアニストに現れる。子供のころから専門の英才教育を受けたために社会性を失うという話は、 中村紘子「ピアニストという蛮族がいる」(文芸春秋社)にもある。中村のは20世紀前半に活躍した物故者ばかりだったので、ユーモラスに聞こえたが、こちらは存命中の活躍を知っているという親近感があるうえ、キャリアで成功を収めた後の話なので、シリアスに響く。なるほど、ピアニストにはストイシズム(毎日の練習や譜読みなど)がある一方で、強い自意識がきまぐれや神経質、傲慢さや自信喪失のなどを起こす。それに世界中を移動し、ホテルと演奏家場を往復するだけの単調な生活が続く。ピアニストにある孤独や節制と、うらはらの傲慢や気まぐれが生活の不自由になってしまう。
とくに、ガンに侵されたアルゲリッチが緊急入院することになった時、付き添いに誰も名乗りをあげず、懇意にしている日本人ピアニストが予定をキャンセルして、看病にあたったというエピソード。名声や人気、お金だけではみえてこない困難があるというのにしばし呆然とした。
最近ではプロのスポーツ選手にはメンタルや生活設計のコンサルがつくというし、引退後の就業支援をする仕組みも作られている。そういうバックアップはプロの演奏家にもあるのか、音楽界でもそういう仕組みがないものか、と妄想してみた。この国の多くの音楽家が教育者や大学教授につくのは、そういうキャリアの選択肢のひとつか(イタリアには引退した音楽家のための養老院があるそうだ。ソプラノ歌手レナータ・テバルディがそういう施設でなくなった)。
さて、この本を読みながら吉田秀和の「世界のピアニスト」を何度も思い出した。冒頭からの4人は吉田も取り上げていたはず。内容はまったく覚えていないが、この本の内容とは異なったコメントだったと思う。たぶん吉田はレコードや実演を聞いたときの「いま=ここ」にフォーカスしているからだろうし、この本では資料を集め取材したうえで歴史を見ているからだろう。こういう違いを思いついた(批評の方法の良し悪しとは無関係。発見と興味を引き出してくれればどちらでもかまわない)。