リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」になぞらえれば、第3部の「英雄の戦場」に当たる。第2部「敵」第3部「伴侶」に当たる著書は(たぶん)ないが、小澤征爾の半生にてらせば、N響事件が「敵」の章だろうし、その後バーンスタインやカラヤンに教えを乞うてボストン響の音楽監督に就任するのが「伴侶」になるだろう。個人的にも結婚して、本書がでた1977年には息子と娘がいる。
広中平祐は小澤の数年年上。パリでであい、アメリカで再会した(いきさつは、小澤征爾「ボクの音楽武者修行」(新潮文庫)に書いてある)。その後は互いに忙しくなったが、連絡は取りあっていた。広中は1970年にフィールズ賞をとり、小澤は1973年にボストン交響楽団の音楽監督につく。どちらも日本人としては初の栄誉となった。40歳前後の年齢で世界的な注目を、しかも日本の国外で得るというは稀有な存在だった。この二人を知るテレビプロデューサーが二人の対談を企画し、テレビ番組にし、かつ本にまとめた。
二人の壮年期であり、創造の意欲の高い時期なので、まずは目先の仕事に集中しなければならない。広中は教授職として教育と研究をするし、小澤はボストン響のみならず世界中のオーケストラの客演をこなすために勉強しなければならない(実際、小澤はラヴェルの管弦楽曲全集やマーラーの交響曲全集の録音を開始するなど、立て続けにレコードを出していくのだった)。そうすると、目下頭の中を占有しているのは個別の問題であり、それは話を広げるわけにはいかないだろう。そうすると、彼らが語るのは自身の半生となる。
共通するのは、日本をでて徒手空拳で西洋と対峙するという境遇であり、組織の後ろ盾がなく個人の才覚で世の中を泳いでいくために勉強するということ。そこで二人が共通する思いとして持つのは、「日本人」の特異性。もちろんそんなものはないのだが、「日本人には優秀な人がいる」「日本には西洋のような差別がない」といういささか偏狭で屈折したプライドだ。優秀な人が成功した人を鏡にすることで、このプライドが増幅されているのだろうと思う。彼らが差別を受けないのは、西洋社会のエリート階層に入っているから、というのは自覚しているようだが、その先まで考えを及ぼそうとはしない。
自分らの勉強ぶりを他人に伝える仕事をしているので、話の多くはそこにいく。しかし現在進行中の仕事を抱えているとなると、どうすれば誤りなく波風立てずに伝えるかという方法を確立するまでにはいたらない。見出せるのは「情熱」だけであって、一生懸命熱意をもって伝えれば必ず通じるという思いのみ。二人とも人に好かれる性格であるのか、他人が耳を傾けようとする愛嬌があるのか、彼らの言動は人を巻き込んで成功を収めていく。その個人的な体験から彼らは教育に口を出す。およそ教育の現場には遠い人たちの意見は、日本の学校教育の改善には届かない。小澤や広中がふだん相手にしているエリート層とは異なる人たちには実現不可能なことばかりなのだ。にもかかわらず教育を口にするのは、彼らが成功したやりかたが普遍的一般的であると勘違いしているからだろう。成功した実業家が教育に一家言をもち、ときに校長になって現場をめちゃくちゃにするのに似ていると思った。
いちおう二人の名誉を付け加えれば、彼らはエリート層に向けた教育を実践し成功を収めている(小澤の音楽塾であり、広中の大学総長職など)。
二人の強みは欧米の仕組みを知っているので、日本との比較ができるところ。それを除くと、二人のエリートの自慢話を延々と聞かされるのにへこたれた。昭和一桁の親父が根性論で成功する物語は、昭和の時代には需要があったのだろうが、21世紀に読むと鼻白む。途中で読了をあきらめた。
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ここは覚えておこう。小澤征爾の本には出てこない。いずれも江口圭一「十五年戦争の開幕 昭和の歴史4」小学館文庫から。
「1910年の韓国併合後、日本の苛酷な支配を逃れて満州に移住する朝鮮人がふえ、(略)日本は在満朝鮮人を『帝国臣民』として、治外法権により領事館警察の手で取り締まる一方、土地商租権をもつと主張して、満州支配の助手に仕立てた。これにたいして中国側も在満朝鮮人を日本帝国主義の先兵とみなし、迫害を加えた(P53)」
「(1930年の)万宝山事件はこうしたなかで発生した。間島からさらに長春方面に移住し、万宝山付近に入植した朝鮮人が、中国官憲の中止命令を無視して、日本の領事館警察の武力援護のもとに水田用水路工事を進めたことから、七月二日、日中の武力衝突事件がおこったのである。この衝突では中国側に若干の負傷者がでただけであったが、日本はこの事件を朝鮮人の反中国感情をあおるために最大限に利用した。万宝山で朝鮮人多数が被害をうけたという日本官憲のデマにのせられ、朝鮮各地で中国人排斥の報復暴動が発生し、一○○名以上の中国人が殺害される惨事となった。/万宝山の紛争で強硬論を唱えて朝鮮人を支援したのは、歯科医で満州青年連盟長春支部長の小沢開作であった。小沢はのち満州国協和会のリーダーの一人として活躍し、一九三五年三男が生まれると、心服していた板垣征四郎・石原莞爾からその子の名前をもらった。ボストン交響楽団音楽監督として世界楽壇に雄飛する小沢征爾その人である(P53-54)」
なお、小沢開作は以下のように証言しているとのこと。
“親父は「日本から満州に来た官僚の中で一番悪いのは岸信介だ」と言っていました。「地上げをし、現地人は苦しめ、賄賂を取って私財を増やした」と。だから、岸が自民党総裁になったときに「こんなヤツを総裁にするなんて、日本の未来はない」とハッキリ言った。”