odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ジョン・ディクスン・カー「盲目の理髪師」(創元推理文庫)

大西洋をイギリスに向かう豪華客船クィーン・ヴィクトリア号で発生した、二つの盗難事件と殺人事件。すれ違いと酔っぱらいのどんちゃん騒ぎのうちに、消えたはずの宝石は現われ、死体は忽然と消え失せる。笑いとサスペンスが同居する怪事件の真相やいかに? 巨匠カーの作品中、もっともファルスの味が濃いとされる本書はまた、フェル博士が安楽椅子探偵を務める本格編でもある。
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488118280

 読んでいる途中で、物思いにふけってしまったために少し筋の記憶があいまい。大西洋を渡航する客船で、アメリカの探偵小説作家(前作の「剣の八」に登場)が、イギリスの外交官とそのフィアンセ、彼女の伯父の人形遣い、引退したスウェーデンだかノルウェーだかの船長らと知り合いになる。例によって外交官の部屋で酔っ払っていた嵐の夜、物音に気づいてドアを開けると女性が倒れている。傷ついた様子なので部屋に入れて介抱していたら、どこかで「泥棒」の声。デッキに出て再び戻ると、女性の姿は消えしかも頭から血を流していたはずなのに、ベッドには血の後もない(まあ、あとで毛布を剥ぎ取るとその下に見つかったわけだが)。船内では行方不明になった婦人はいない。というわけで、主題は消えた死体ということになる。
 ところが、物語はこちらの捜査にはむかわずに(なにしろ死体がないし行方不明者もいないから船長も捜査をするわけにはいかない)、部屋から出ないで引きこもっているイギリス貴族がエメラルドの像が盗難されたから探せという方向に向かう。そうすると、行動したがるがあまり知恵のない作家と外交官の面々、珍妙なできごとにばかりでくわすことになる。とある船室を探そうとしたら、泥棒と間違えられ、いきなり船長を殴ってしまうわ、アメリカの殺虫剤のセールスマンに依頼されて広告の宣伝になる約束はしたものの殺虫剤が吹き出て船長を悶絶させるわ、怒り狂った船長に船倉に閉じ込められたが顔に靴墨を塗って逃げ出すわ、酔っ払った伯父さんは部屋をぬけでて客の靴を海に投げ捨てるわ、ぐでんぐでんに酔っ払った人形遣いのかわりに劇にでたもののすっとんきょうな演技で観客を巻き込んで大騒ぎになるわ、とたっぷりコメディを味あわせる。あいにく、センスが自分には古くて大口開けて笑うというわけにはいかなかった。
 例によって勝手に妄想すると、これはなんだな、コンメディア・デ・ラルテのストックキャラクターを使ったシチュエーションコメディだ。ストックキャラクターはピエロとかパンチとか、名前を聞いたらすぐにキャラクターがわかる登場人物のこと。大体こういう役回りでこういうアクションをするというのが決まっているので、とくに筋など用意しなくても即興で笑劇になるという連中だ。今回舞台は大西洋横断中の船の中ということでフェル博士は登場しない。こういう太って年老いて知恵をたっぷり持っていて謹厳な顔つきをしながらとんでもないことをするというフェル博士に期待される役回りは元船長が勤める。若い恋人同士が口喧嘩しながらも仲がよくなっていくというのは外交官とそのフィアンセが担当し、いかめしい格好をして権力を振るいたがるがみんなにコケにされて笑いものになるというのは船長(外交官に殴られ、ボクサーにボディブローをくらって悶絶し、殺虫剤を顔に振りかけられて呼吸困難になり、イギリス貴族にばかにされるなど散々なめに合う。それがちっとも憐憫を誘わないのは、そういうストックキャラクターだから)。まあ、人物を振り分けたら、もうそこから笑いのアクションが始まるということになるのでしょう。たぶんのちの「パンチとジュディ」「連続殺人事件」「赤い鎧戸の影で」なんかもそういう趣向の話だとおもう。17世紀のイタリアの作曲家にヴェッキという人がいて、「マドリガル・コメディ」というのを作っている。コンメディア・デ・ラルテのキャラクターが登場しマドリガル(まあ当時の小唄とでも思いなせえ)をうたうという歌芝居。それを思い出した(バブルの時代に日本で上演されたことがあり、TV放送の録画を持っている)。
 謎解きだが、まあ、そりゃ無理じゃね、というのがメイントリックに関する感想。消えた死体の処理をそうするのは絶対ダメなんだよな。行方不明者が発見されない理由もそりゃないでしょ。面白かったのは、フェル博士の謎解きで、それはこのページに書かれているよという注釈がついていること。この趣向はまず見たことはなくて、ほかにはノックス僧正の「まだ死んでいる」しか知らない。

盲目の理髪師【新版】 (創元推理文庫)

盲目の理髪師【新版】 (創元推理文庫)