odd_hatchの読書ノート

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カーター・ディクスン「騎士の盃」(ハヤカワ文庫)

 イングランドの近郊にあるデルフォード館。17世紀にさかのぼる古い貴族のもので、幸い戦禍にあわずに1953年の現在までよく保存されている。イギリスの貴族はこの種の建物を保存しなければならず、みかけほど資産をもっているわけではないそうな。現在はトム・ブレイスという若者が住んでいる。戦争中に従軍看護婦として英国に渡ったヴァージニアと見初め、結婚し、今では9歳の男の子が10代目ブレイスを名乗ることになっている。

 さて、問題はこの家に伝わる「騎士の盃」という逸品が盗まれかかったということだ。家の歴史と同じくらい古く、しかも宝石と金をふんだんにつかっている。たいていは銀行の金庫にしまっているが、その地の展覧会で展示することになったので、持ち出していたのだった。奇妙なのは、鍵のかかった密室に入れておいたのが、朝、テーブルの上にのっかっている。トムとヴァージニアはマスターズ警部に持ち込んで、「事件」の解決を依頼する。そして深夜、マスターズがその部屋にこもったとき、賊に襲われた。しかし盃は盗まれなかった。さて、どうやって賊は密室に入ったのでしょう、そしてなぜ盃を盗まなかったのでしょう。これが謎で、実のところ、殺人はおろか盗難も起きていない。にもかかわらずとりあえず340ページを読み進むのはこの謎がまあ、興味深いからだ。
 むしろ作者は老人たちの奇妙な振る舞いを描くことに熱中しているとみえる。デルフォード館の近くに住んでいるヘンリー・メルヴェル卿は80歳を超えて流石と体を動かすのは難儀とみえるとはいえ、いたずら好きは消えておらず、持ち前の音痴でもって教会の慈善演奏会で奥様方をけむに巻いてやろうとするわ、トムの息子に弓矢の使い方を教えて執事や女性政治家の尻を狙うわ、最初はそのような教育に文句を言いに来たヴァージニアの父にしてアメリカの議員ウィリアムがH・Mの誘いにのって半裸の女性政治家と「ウィリアム・テルごっこをするようになるわ、マスターズはおりからのデルフォード館の鉛管工事の道具に蹴躓いてもう一回頭を打つわ、てんやわんやの騒動になってしまう。唯一沈着なのはH・Mの屋敷にいる執事だけ(例によって主人よりもずっと頭がよくて、ずば抜けた知識の持ち主というのが笑える)。彼のもったいぶった口調で、上記のドタバタが報告されるというのがおもしろい。あと、H・Mの音楽教師であるイタリア人も、つたない英語で皆につっこみをするし、ときには自分を「ワトソン博士」であると宣言して、なかなかの探偵能力を発揮する。
 イギリス史にはうんちくを傾けたい作者の常として、この館の因縁話が語られる。すなわち17世紀の内乱で活躍したある貴族とある娘の恋愛があった。それがガラス戸のサインとして残されているという。アメリカからきたヴァージニアはこの種のロマンスに首ったけなので、毎夜このガラス戸のまえでトムとの愛を語らう。まあ、かの国には歴史がないから、この種の骨董品には興味津々になるのだ。
 上記のように、H・Mが80歳を超え、田舎に隠遁したとなると、もはや彼を探偵にすることはできない。そのために、この事件がH・Mの最後の事件。まあ、コンメディア・デ・ラルテのストックキャラクターを模しているとなれば、彼の退場もこのようなスラップスティックコメディでよいのだろう。老年の悲しみや別離という余韻はまったくないのだけど、それがよい。