月光が大ロンドンの街を淡く照らしている。数百年の風雨に黒ずんだ赤煉瓦の時計師の家、その屋根の上にうごめく人影。天窓の下の部屋では、完全殺人の計画が無気味に進行している……。死体のそばに、ピストルを手にした男が立っていたが……。奇想天外の凶器! 魚のように冷血な機略縦横の真犯人と対決するのは、おなじみフェル博士。
死時計 - ジョン・ディクスン・カー/吉田誠一 訳|東京創元社
江戸川乱歩の「カー問答」やHMMのカー追悼号でこの作品を知っていたときには、時計の長針を使うという奇想天外な凶器という趣向があるということだけだった。再読すると、そういうことではない。
レトロ時計の収集家にして修理士ジャハナス・カーヴァーがいる。彼のなおした古い時計を展示している百貨店で盗賊が入り、盗難される共に売り場監督が殺害された。スコットランドヤードに匿名の密告書が送られ、一人の警部が担当する。フェル博士らが時計師の家を訪れると、上記のような死体と容疑者と目撃者がいる。目撃者エリナーは容疑者の青年ボスクームが手にした拳銃で射殺したと告発するが、死体は時計の長針が脊髄から胸を突き抜けるまで刺さっていた。死体は驚くべきことに百貨店の盗難事件を担当している警部エイムズその人。その後明らかになるのは、この容疑者の青年は元警官の友人スタンレーといっしょに「殺人ゲーム」を準備していて、被害者として白羽の矢をつけた浮浪者をこの館に招き入れたのだった。しかも、彼に好意的でない館の青年は屋根にあがり天窓から彼らの「ゲーム」を監視していた(念のために書いておくと、蝋燭やランタンの灯りはなく、当然電気照明もなく、あたりを照らすのは蒼い月明かりのみという状況)。さらに、容疑者の青年の法的弁護人である女性弁護士ルーシア、さらに時計師の家に住み込むオールドミスに女中が登場。いずれも仲が悪いという家庭環境。
1934年初出のこの作品のポイントは、計画された殺人通りに進まなかった殺人ということと、多すぎる容疑者ということになる。死体の発見は冒頭から20ページ足らずという速さであるが、フェル博士とハドリー警視が尋問用に借りた部屋に入ってからが長いこと。登場人物一人ずつに一章分の陳述をさせたおかげで、150ページほどが同じ部屋で進む。それぞれ自分の立場で持って語るものだから、上記のようなプロットはなかなか把握できない。そして、屋根に上がる跳ね上げ窓が施錠されていたか否かという問題が延々と討議される。このあたりのもったいぶった、というか、なかなか進行しない物語というのは「帽子収集狂事件」にも共通するところ。そして、その退屈な会話に重大な手掛かりをふっと挿入させる。この手際は再読した時の醍醐味になる。たぶん「アラビアンナイトの殺人」という長編をものしてから、もう少しスピーディでファースの味を濃くした作風に転換したのだろう。
中盤以降は、容疑の矛先が最初の状況から変わり、告発者自身に向かっていく。この小説では視点がフェル博士とハドリー警視に集中しているので、告発される側のサスペンスは描かれない。そちらを主題にしたのが、「皇帝のかぎ煙草入れ」になる。結局のところ、もっとも犯人らしくない人物が犯人であるという逆説を残して幕は閉じる。どうもこのころのカーは「意外な犯人」に執着していて、読者からするとその徹底振りがアンフェアにおもわれて、どうにも評価しにくい作品になっている。意外な犯人でカタルシスを得られればいいけれど、それに乏しいのはアクションとかユーモアに乏しいせいではないかしら。このあと作風を転換したのは正解だとおもう。
「時計の針」という珍奇な凶器はさほど重要な主題ではない。途中で、髑髏の形をした悪趣味な時計が現れるくらいで、西洋の時計に関する蘊蓄が語られるわけでもない。むしろ登場人物が興味を抱いていた「スペインの宗教裁判」のほうが怪奇・残虐趣味を抱かせるものだが、詳しい記述はない。たかだか300年前のこととはいえ、キリスト教徒にとっては気味のよいものではないし、ある意味常識であるから(この邦訳の初版がでたころのわかものにとってはモンティ・パイソンのスケッチのおかげで「ギャグ」とおもうかもしれない)。
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