odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

坂野潤治/大野健一「明治維新」(講談社現代新書) 維新は4つの指導グループが連合・反目をしあいながら、「富国」「強兵」「憲法」「議会」を実現していった。

 明治維新をイギリスやフランス、アメリカなどの欧米革命と比較しない。ではなく20世紀の開発独裁体制と比較する。そうすると、明治維新後進国が先進国にキャッチアップできたという極めてまれな「革命」といえる。開発独裁では、政変他は過激で、前政権の全否定(報復政治)が行われ、政権は不安定であり、格差と不信の対立が固定化する。明治維新ではそれはなかった。


 なぜ明治維新開発独裁ではない「革命」が可能だったか。それを著者らは政治の「柔構造」体制にみる。柔構造の特長は、単独の指導者がいるのではなく目標や方法を異にする複数のグループが連合して政治にあたり(主導グループが脱落したり連合の相手が入れ替わったりする)、グループ内とグループ間の合議による合意形成があり、国家目標は指導グループの都合や連合の組み合わせによって優先順位が変わる。これによって政争や政変が回避され、混乱や遺恨を残さない。政治的安定の実現で行政能力が上がっていく。
 明治維新封建制や身分制の社会制度が立憲君主制になるまでの変革期間であり、1858~1881年とする。この変革期の国家目標や方法を準備したのは雄藩時期の封建商社と封建議会の経験である。藩が商社を経営して強兵に投資する。藩内及び雄藩連合が合議を行って合意形成をとる。この経験がそのまま明治政府の指導者グループのモデルになった。通常明治維新は1868年の大政奉還廃藩置県をメルクマールとするが、それは変革の主要プレーヤーから幕府が脱落しただけなので重要視しない。
 国家目標は倒幕期は「富国強兵」と「公義輿論」だったのが、政権樹立後は「富国」「強兵」「憲法」「議会」の4つになった。それぞれの代表は西郷(強兵)、大久保(富国)、木戸(憲法)、板垣(議会)である。この4つのグループは単独では権力を持てないので、グループ間せめぎあいで政治体制再編と国家目標が変わる。指導者層は複数の目標を持っていたので、連合グループでも優先順位を変えたり特化したりすることで存続し、離反しなかった(指導者の後ろ盾となる藩が同じくらいの強さだったので、誰かが突出することができない)。
 このあと1853~1881年までの政争を連合グループの離合集散でみる。個々の事象の解釈もこれまでの歴史解説本と違って面白いが、些末になるので割愛。著者らによるとこの20年は実験と失敗の連続だった。「富国」と「強兵」はトレードオフで、「議会」と「憲法」もスケジュールや内容で折り合いがつかない。封建商社に藩を取る政府による殖産興業も失敗する。これらの矛盾と失敗の総括が1881年に出た「国会開設の勅諭」。天皇が議会の解説と憲法の制定を公約にしたので、以後は公約の実行になる。政府は企業経営から手を引き、民間に委託する。
 このような「柔構造」とそれによる改革が実現した背景には、(1)運輸交通、情報伝達のしくみが民間にあった、(2)富裕層と知識人層が成長、(3)国学などによるナショナリズムの浸透がある。

 以上、第1部「明治維新の柔構造」の大雑把なまとめ。以下は俺のいちゃもん。
 複数グループの連合と合意に基づく「柔構造」が指導者層にあったという見方。懐かしいなあ、どこかで見たことあるなあと思ったら、ヴォルフレン「日本/権力構造の謎」で分析した日本の政治構造〈システム〉と一致する見方だった。また平安時代摂関政治もグループの連合で運営されているというのをどこかで読んだことがある。「柔構造」は明治維新の際に雄藩の下級武士が作った政治体制というよりは、日本人が「自然」に作りだすグループ運営方法を採用したのだった。
〈参考〉
2023/06/27 北山茂夫「日本の歴史04 平安京」(中公文庫) 
大岡昇平「俘虜記」(新潮文庫)-3
 複数グループの連合であるのだが、徹底的な政争や離反に至らないのは、政治運営に携わる指導者グループが共通の目標や理念をもっているから。たとえば戦後の自由民主党宗教右翼から経済自由主義まで幅広いグループの連合で運営されているが、なかなか分裂が起こらないのは、日本国憲法改正と対米従属と国体思想で一致しているから。それと同じような目標や理念を明治の指導者グループは持っているはずだが、本書では深堀しない。俺の考えと本書でそれとなく示唆されているところからすると、共通目標と理念は「尊皇攘夷」と「植民地支配」である。これをまとめたのが「国体思想」。
(1881年の「国会開設の勅諭」から10年後に帝国憲法が発布され帝国議会が開かれる。それ以後の政策と国家目標はこの二点になった。)
 一般民衆は明治維新の政治改革に関係していないと断じている。指導者グループのほとんどが士族であり、ごく少数の富豪が合議に参加しているだけなのでそう言える。でも、俺からすると士族の指導者グループは大衆嫌悪が強く、全く信用していなかったことを無視している。西南戦争で強い力をもった「革命軍(本書の呼称)」が内戦終結後に起こした反乱を鎮圧したり、農民一揆を徹底的に叩き潰した。そういう大衆蔑視があった。一方で廃仏毀釈国学出身の政治家による扇動で大規模な破壊運動が起きてもいる。
 という具合に、明治維新では「国体思想」と大衆蔑視の両方をみないといけないと思う。本書は面白いけど内容には不満。

 

 第2部は「改革諸藩を比較する」で、第1部で見た指導者たちの後ろ盾になった藩の「柔構造」をみる。聴衆や薩摩の出身者が明治政府の指導者になったのは彼を支える集団の結束が高く、藩内が安定的であったため。土佐や越前、肥前が王政復古以降、存在感を失墜していったのは、これらの条件に欠けていた(大きいのは藩内の政争・内紛があって不安定だった)ため。
第3部は「江戸時代――飛躍への準備」。江戸時代は社会が安定していて、活力ある経済発展をしていて、工業化を進める準備ができていた(他に農業発展、手工業、物流他のインフラ整備、金融システムと厚い商人層、藩の産業振興、教育など)。この条件を満たす非先進国はほぼない。にもかかわらず、幕府の権威が失墜し「革命」になった。幕府の経済政策がダメだったのが大きい。とはいえ1850~1870年に「革命」ができたのは僥倖。別の時期だとうまくいかなかったのではないか、とのこと。
 面白い話だが、ここは別の本で勉強しよう。国学ナショナリズムの評価が俺と違うし、外圧の評価は世界システム論を参照してもよさそう(代わりに採用するのが梅棹忠夫の「文明の生態史観」だ。俺は梅棹の論はトンデモなんじゃないかと思っている(日本がでかすぎ)ので、本書の説明にはノレない)。
 俺の日本の近現代史の見方はスノッブがちょいと本を読んだイデオロギッシュなものなのだろうなあ。こういうアカデミックな見方にはどうも敵対的になりがち。

 

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〈参考〉

日本がなぜ先進国になったか。教育と科学技術に投資したことが大きい、という論文の要約。ツリーを全部読むことを推奨。