odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

デカルト「方法序説」(岩波文庫) 根無し草の生活をする亡命者が〈この私〉を語ると哲学そのものになる。

 最初に読んだのは、落合太郎訳の岩波文庫だった(本文より訳注のページ数が多いというのに驚愕。これが学問なのかとその高さに呆然とした)。あとで小場瀬卓三訳角川文庫も読んだ。今調べると、 谷川多佳子訳岩波文庫山田弘明ちくま学芸文庫野田又夫訳中公文庫、三宅徳嘉訳白水Uブックスといろいろな版がでているのだね。自分には訳の良し悪しは分からないけど、これほどの名著なので、どれを選んでもそう差はないでしょう。
 1637年、デカルト41歳のときに出版。
 さて、内容は十分に知られていると思うし、素人が「コギト」かと「神の証明」云々の議論をするのは無謀だし(トンデモ解釈をやらかすから)、血液循環や松果腺の説明のおかしさを今日的視点で批判してもしかたがない。そのあたりは専門家のやさしい解説書がたくさんあるので、そちらを参照してほしい。また19世紀後半から近代哲学批判が始まるとデカルトが悪者にされることが多いので、ニーチェフッサールハイデガーを読む前にこちらを読むことは必須(あとソクラテスも)。こういうことを書いても仕方がないので、ちょっと別の視点でおもいついたことなど。
 およそ哲学書で「私」が登場することはない。解説書で大学教授が「私の『方法序説』との出会いは・・・」などと書いたりするくらいか。あるいは主観や自我や独我論などで「私」が登場することはあるかもしれないが、それは一般的で抽象的な「私」。しかし「方法序説」に登場する「私」がデカルトさん本人であって、他の誰かに代替できない唯一の「私」。つまり自叙伝を書くことがそのまま哲学になったというわけだ。しかも主著。これは空前絶後(細かいことをいえば、中世の教父文書やルソー「告白」「孤独な散歩者の夢想」、ニーチェ「この人をみよ」、レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」などの「私」の出てくる哲学書の系譜は作れるのだ、けど)。
 もうひとつは哲学することのスタイルかな。17世紀ではまだ大学が医科大学か神学大学であって、専門職業家(医師、法律家、神父など)を養成する機能のほうが大きかった。哲学も科学も技術もそれぞれ個人で行うもので、その成果を国家や権力が利用するという考えはまだなかった。でも、フランスの宮廷ではサロンができて(16世紀のモンテスキューラ・ロシュフーコーの時代だ)、そこでは文学や哲学談義が行われた。そういう会話ができるように、王族や有力貴族は家庭教師として教師を呼ぶことがあった。デカルトは教師としての生き方をした人で、生まれはフランスであっても、オランダやスウェーデンやそのた西洋各地を転々と移動していた。デカルトの考える方法的懐疑は彼の根なし草的な生活から生まれてはいないかと愚考する。明日部屋を追い出される可能性、移動中に山賊に襲われる可能性などを考えながら眠りにつくとき、不安を感じる一方、不変なものへの憧憬がうまれるのではないか、と。同時に、そこにある国家とか権力とかの庇護を受けられない放浪者、亡命者として思考することなど。「コギト」がある場所はデカルトの経験したそういう「間」にある場所なのだろう。
(逆に、大学教授の地位に安住できるとか、莫大な資産をもって悠々自適なうちに思索生活をするようなものだと、自我とか主観とか存在の根拠に「共同体」「民族」などを見出すのではないかしら、ともいえる。)