odd_hatchの読書ノート

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カール・マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」(光文社古典新訳文庫)

 光文社古典新訳文庫では「ユダヤ人問題に寄せて/ヘーゲル法哲学批判序説」の二編(と補論、論文など)を収録している。このエントリーには「ヘーゲル法哲学批判序説」の感想を載せる。

2022/06/21 カール・マルクス「ユダヤ人問題に寄せて」(光文社古典新訳文庫) 1843年


 このあと、マルクスは「経済学哲学草稿」と「ドイツ・イデオロギー」を書く。

 

ヘーゲル法哲学批判序説(1843) ・・・  マルクスはこの論文の前提になっていることを書いていないので、補足しながら読まないといけない。当時のドイツの状況はカール・マルクスユダヤ人問題に寄せて/ヘーゲル法哲学批判序説」(光文社古典新訳文庫)に書いたので詳細はそちらで。重要なのは、プロイセンでは宗教と国家と俗人(市民:ブルジョア)は一体化しているという指摘。宗教批判は教義の批判であるのではなく、政治権力と一体化してその住民の思想統制と監視を行う機能を批判すること(その状態をマルクスは「アンシャン・レジーム」という)。目標は権力から宗教を引き離すことにある。というのはヘーゲルの「法の哲学」では国家は公民(シトワヤン)に支持されているとされるが、マルクスの見るところプロイセンでは国家は私有財産(=市民(ブルジョア))に支配されているのだ(なのでヘーゲルの方法で「法と哲学」を批判的に書き直さなければならない。その構想をマルクスは持っていた)。国家の試験で選抜したり任命したりした成員である公民は国家が法で定めた自由の枠の中でしか活動できないし、職業組合の成員や新興資本家である市民(ブルジョア)はまさに私利私欲で国家を運営する。ヘーゲルが考えた「国家」は1840年代には存在しないのだ。人々を抑圧し搾取し疎外し身分制を残す国家から「解放」されるにはプロイセンの諸階級は互いにいがみ合い抗争しているので、頼りにならない。すると、解放の力になるのはまだ階級として現れていないプロレタリアだけなのである(「経済学哲学草稿」でもプロレタリアートはイマジナリーな存在であるとされる。おそらくプロレタリアは工場労働者などの都市の労働者のことではなく、国家から個人が人間として「解放」される政治的意識・精神をもった個人のこと。なので農民もプロレタリアになれる。のちにレーニンがそういう人を「革命家」と名付けたが、プロレタリアと同じ意味。「プロレタリア」を都市の労働者とするのはマルクス主義者の誤謬なのだろうなあ)。また政治的に「解放」されるというのは、抑圧された人間が欲望や欲求を自由に発現することではなく、一部のものの特権をすべての人々が有するようにすること。さらにマルクスのいう「人間」は、類的存在云々ではなく、公民(シトワヤン)や市民(ブルジョア)から排除されて政治的な権利をもたない人々のことをいう。恐らく当時のマルクスの考えでは女性やエスニックマイノリティは「人間」から除外されているのではないかしら。こういう目論見で、ヘーゲルの「法の哲学」を批判する予定だったようだが、さてどういうものになったのかしら。ヘーゲル市民社会論は21世紀に検討するには古すぎて、あまり関心をもてない。
 この論文で人口に膾炙しているのは次の部分。

「国家が、社会的なありかたが、顚倒した世界であるために、顚倒した世界意識である宗教を生みだすのである」
「宗教という悲惨は、現実の悲惨を表現するものであると同時に、現実の悲惨に抗議するものでもある。宗教は圧迫された生き物の溜め息であり、無情な世界における心情であり、精神なき状態の精神なのである。宗教は民衆の阿片なのだ。」

 上の点を踏まえると、宗教全般が「民衆の阿片」なのではなく、政治と一体化して人々に生と死の意味を押し付けて安心させる(かわりに権力批判に向かわせない)「宗教は民衆の阿片」であるのだ。「民衆の阿片」になるのは、国家宗教(たとえば日本)や国家と一体化した宗教(たとえば、イギリスやドイツ)なのである。
 マルクスはちゃんと説明するべきところを圧縮したり、すっ飛ばしたり、秘教的に書いたりするから、理解するのが大変になる。もう少し丁寧にわかりやすく書けばよかったのに。

マルクスの学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』の序文と二つの脚注(1841) ・・・ 学位論文の抜粋。
マルクスの一八四三年のルーゲ宛て書簡(1843) ・・・ 若いマルクスヘーゲルのように精神、国家などを考えている資料。ルーゲとマルクスはドイツの革命の可能性を議論していたという。

 以上を参考書抜きで読んだので、この後訳者の解説を読む。

 読んだが、19世紀マルクスの目でヘーゲルヘーゲル学派を見る内容で、いずれにも関心がないので参考にならない。当時のプロイセンその他の国家の制度(とくに教会との関係と国民の統治方法)がないので、話が抽象的。21世紀の差別や自由を考える参考にはならなかった。
 ヘーゲルプロイセンの体制を擁護したので、その死後、ヘーゲルの哲学は体制(それを支える大学)の御用学問になっていた。体制化された教授や取り巻き連中を「右派」と呼ぶ(ああ、それで19世紀ドイツの大学の教授たちはヘーゲル哲学を慣用して人文学を作ったのか。音楽学に「精神」がでてくる所以)。対してヘーゲル哲学を批判的に乗り越えて体制批判をしようというのが「左派」。バウアーや若いマルクスなど。