odd_hatchの読書ノート

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パトリシア・スタインホフ「死へのイデオロギー」(岩波現代文庫)-1

 著者はアメリカの社会学者。戦前日本の転向問題を研究している過程で、1960年代後半からの新左翼運動の研究を開始する。さまざまな事件の関係者とインタビューし、当時の記録を読み、批判者や支援者などと議論する。ここでは新左翼運動のもっとも陰惨な事件である赤軍派を取り上げ、結成から逮捕、判決までをまとめる。主題は、連合赤軍事件。そのなかでも、1972年冬に起きた粛清。
 下記のサマリーにもあるように、「日本赤軍」「赤軍派」「連合赤軍」はそれぞれ異なる組織。綱領もメンバーも活動拠点も違う。個人的な知り合いはあったようだが、互いに連絡を取らず、別個に活動していた。そのような差異は運動の関係者や研究者でなければあまり気にすることはないが、一応押さえておくように。

プロローグ ・・・ 研究のモチベーションを説明。マッカーシズムの時代に学生、その後はアメリカの社会運動や学生運動にも参加する。そして日本の戦前共産党の転向について研究を開始。1972年のテルアビブ空港襲撃事件を知り、進行中の日本の新左翼運動に関心を持つようになった。
第一部 岡本公三 世界同時革命の夢 ・・・ 1972年5月30日のテルアビブ空港襲撃事件の襲撃犯で一人生き残り終身刑を受けた岡本公三のインタビュー(たぶん1972年夏)とその後。岡本の「転向」と、日本(人と国)の責任の取り方の違い。このとき、日本政府は賠償金100万ドルをイスラエルに支払い、謝罪している。個人の犯罪に対する責任の取り方としてはとてもユニークとのこと。政府だけでなく、関係者(家族など)の責任の取り方においても同様。
(岡本の経歴で興味深かったのは、最初に社会運動に参加したきっかけがべ平連のデモであったということ。全共闘や党派のデモでは警官や機動隊の暴力にさらされ、死を覚悟するのであったが、べ平連のデモでは暴力を受けることは少なかった。そのために岡本はこのデモでは成果が上がらないと思い、武装闘争を掲げる党派にジャンプする。そこでは、三つの考え、ひとつは短期的に成果をあげたいという希望とその挫折、もうひとつはオルグや会議などの革命家・活動家であることよりもテロルを選択するということ、そして自分の肉体は世界同時革命の理念の前では価値が少ないと考えること、がみられる。これは1970年代前半の武装闘争グループの構成員に共通するのではないか。)
第二部 赤軍派 革命軍兵士というイメージ ・・・ 1968年ころから1972年までの状況まとめ。ブントの中から武装闘争をミッションにする赤軍派が誕生。武装された革命党で党員であるより軍人であることを優先する。世界革命が進行中であるので、闘争の現場はどこでもかまわない。第1世代の赤軍派大菩薩峠事件で大量に逮捕者を出し、一方で北朝鮮パレスチナなどに密出国していった。指導者を失った第2世代は海外転出よりも国内の武装蜂起をめざし、地下活動を行う。資金の行きづまり、警察の監視に耐えかねて、居場所を転々とし次第に追い詰められていく。なお、赤軍派がブントから別れるに際して、リンチや内ゲバを経験し、死者を出していた。
全共闘やべ平連などの「正規」な運動が成果をもたらさないことに不満を持つ若者たちは、より攻撃的な方針を掲げる党派セクトに惹かれていく。その一つが赤軍派であり、これは軍の組織と規律を持つものとされた。実際はこの国では軍事教練が行われていないので、軍の組織やその構成員になることは想像力の外。どうやらロマンティックな憧れであったにすぎないようだ。大菩薩峠事件で軍事教練に参加したのが大学生、予備校生、高校生など平均年齢20歳以下であったことに如実。第2世代は、規律や訓練のしくみを整備していったが、素人に毛が生えた程度のしろもの。おかしいのは既存のヒエラルキーや秩序を転覆する革命党の組織がこの国のタテ社会の模倣であり、学歴優先を反映していたということ。)
第三部 連合赤軍 粛清をめぐる閉ざされた集団の考察 ・・・ 連合赤軍赤軍派とは別のグループ。こちらは国内を内乱状況にしてそこから革命を発生させるという毛沢東武装遊撃戦というビジョンを持っていた。金を持つグループと銃器を持つグループが合同し、ゲリラ戦だかテロルをするはずであったが、都市で生活できなくなり、群馬県の山中にアジトをつくる。このグループは当初から官僚的であり、指導者と非指導者という階層ができていて、下部のメンバーは指導者に従うというルールができている。このグループが1971年12月から翌年2月にかけて、メンバーの3分の1をリンチ・粛清・殺害した。暴力をふるう側にも殺される側にもなぜそのような行動をしたかの十分な説明ができない。ここでは社会学や心理学の知見を使って説明する。彼らは革命の戦士・軍人であろうとし、そのために集団意識高揚法(コンシャスネス・レイジング)という手法を使う。これはグループ内で相互批判しながら自己意識を変革する手法。熟練したセラピストが参加者をコントロールしないと「いじめ」に発展するのであるが、そのような役割はこのグループにはなく、またセラピーの前提となる平等主義もなかった。山岳ベースではメンバーの「共産主義化」という目標があったが、あいまいで具体性がない。「共産主義化」が足りないという指導者の批判に対してどのように答えればよいか、どのような変革をなすべきかのモデルがなかた。そこでグループの成員は不安と恐怖を持つようになる。警察の追及から逃れるために冬山の奥深くに潜入したのだが、逆にメンバーは逃げ場のない「出口なし」の状況になった。終りもなく逃げ場もなく、戦いも行われない閉鎖空間で彼らの行動はエスカレートしていく。そのプロセスにおいて、イデオロギー共産主義化)と現実(達成したメンバーがいない)が不一致しているとき、現実の解釈を変えていく(死んだメンバーは敗北や逃亡の末の死であり、党や軍のイデオロギーに誤りはない)。そのような暴力や殺人の正当化の理論ができ、指導者の命令や判断だけが正しいものとなっていく。そこでは加害者になるか被害者になるかの差異はほとんどなく、たまたまスケープゴートにされた被害者は自己変容を従容と受け入れ、加害者は歯止めなく暴力をエスカレートさせていく。指導者・森の判断だけが正しいことになり、メンバーは判断停止状態になる。
(以上はまとめであって、議論の細部ははしょったところがある。うえにまとめたのは、社会学や心理学の知見を利用した見解。たぶんこの事件に限らず、時代や場所を変えたさまざまな事件や問題に適用できるだろう。本の中でも1930年代のソ連の粛清や中世の魔女狩りなどにこのまとめを適用している。それだけでなく、著者はこの国の社会慣習や風習などの特異性もみている。プロジェクトの進行に関する決定で全員一致を要求するとか、事案や決定に不服であってもプロジェクトに参加しなければならないとか、不服や非承認は言語ではなく態度(とくに沈黙)であらわされるとか、メンバー内部で相互監視と疑心暗鬼が生まれて、スケープゴートがつくられると暴力を加速させるとか。そんな具合に、これは一般的であり、一方でこの国独自のユニークな事件なのだ。多くの場合、指導グループの異常性や彼らのイデオロギーに内在する傾向などに原因を求める。それは多分にこの問題がわれわれとは無関係であると信じるための操作であるだろう。すなわち、この事件だけが得意なのではなく、メンバーの異質なものをスケープゴートにして、「出口なし」の状況をつくり、陰湿で過激な暴力をふるうことは珍しくない。そのうえ、スケープゴートが加害者に反撃せずに、自己変革のできない自分に責任があるとかんがえるところも同じ。これは過去の、現在の、企業・学校・家庭・軍隊・共同体で起きたことであり、起きていることであり、起こりうること。だからこの陰惨な事件は考えなければならない。しかもなくすためには、そのような閉鎖空間をつくらないように外部の眼が入り、組織や集団の成果やパフォーマンスを外から評価するようにするという単純で、実現困難な方法しかなさそうなのだ。この「いじめ」「ヘイト」「差別」は教育することは有効ではあるものの、「意識を変えよう」という啓蒙や対話はほとんど無効。暴力をふるうものには暴力的に介入して暴力を解除しなければならない。なんとも面倒な作業だ。)

パトリシア・スタインホフ「死へのイデオロギー」(岩波現代文庫)-2