odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

ハーマン・メルヴィル「白鯨 上」(新潮文庫)-1 誰でもない誰でもいい饒舌な語り手がテキストで世界を語りつくそうとする。

 ひとところには住めない風来坊がいる。とりあえずの名は「イシュマエル」としよう(日本語訳には下記のように揺らぎあり)。商船に何度も載ってきたが、今度は捕鯨船に乗り込むことにする。一度航海に出ると数年は帰れないかもしれない長距離の航海だ。そこでの孤独は自分の餓えを癒すに違いない。アメリ東海岸のニュー・ベドフォードの船員宿で「人食い人種(ママ)」と意気投合し、共にすることにする。イシュマエルの見つけたのは「ピークォド号」。その船の船長は姿を見せず狂気であるとうわさされるエイハブだった。彼は自分の片足を奪った白鯨「モービー・ディック」に復讐することを誓っている。クリスマスにナンターケットを出港した「ピークォド号」は地球を半周する航海の末、太平洋の赤道付近で白鯨を発見。追跡を開始した。

 おおよそのストーリーはこうだ。ストーリー? 上に書いたことは新潮文庫版全1000ページのうちの350ページに満たない。出航するまでは250ページ。白鯨の情報を知って追跡を始めてからは100ページもない。では、その間の1年近くの航海で何があったのか。ほぼ何もない。ルーティンの捕鯨と鯨油作りと船や装備の補修である。その退屈な時間、間に挟まった650ページは鯨の知識と捕鯨船の紹介に費やされる。博識と経験に裏打ちされた微に入り細を穿つ描写は執拗そのもの。航海の退屈さそのもののように読書は退屈になる。ことに新潮文庫版下巻の冒頭から400ページころまでの鯨学にはへこたれそうになる。しかし、それをしっかりと読むことこそが、エイハブの狂気に付き従うことに他ならない。エイハブの狂気、妄執は1年の間に一等航海士スターバックを除く全員に感染し、陰鬱で気難しげにしてしまう。その理由は小説に書かれないとすると、鯨学の細部に拘泥することこそがエイハブと船の狂気を理解する糸口になるのだろう。

15分でわかるハーマン・メルヴィル「白鯨」ダイジェスト
ハーマン・メルヴィル「白鯨 下」(新潮文庫)-ダイジェスト1
ハーマン・メルヴィル「白鯨 下」(新潮文庫)-ダイジェスト2
ハーマン・メルヴィル「白鯨 下」(新潮文庫)-ダイジェスト3

 とはいえ、高校時代に熱に浮かされたように読んだときと、ほぼ40年を経ての再読の2回きりの読書では、まともなことはいえるはずもない。いまは新潮文庫岩波文庫講談社学芸文庫で読めるようになっていて、どれにも詳細な解説がついているから、「白鯨」の読み取りはそちらにまかせましょう。ここでは素人たる自分のメモを書いておくことにする。
・象徴の物語。さまざまな意匠がここには登場。たぶんそれは何かの意味を持っているはず。たとえば、エイハブの義足や帽子やスペイン金貨、クィークェグの木造の神や銛や棺。エイハブの壊した四文儀、羅針、測程標(エイハブはこれらの科学や技術を破壊し、自分で制作した粗末な機械で世界を測ろうとする)。鮫や鷹。
・なによりも白鯨。この答えない神、怒りの神はいったいなにもの? 人間の銛を受け取り、全身に鯨索を絡ませ、ときに死体を身にまとう。人間の乗り越えの試みに嘲笑的で、ときに挑発し、ボートや船を破壊し、人々を海に沈める。この怒りはいったいどこから。なぜ人間の問いかけに答えない。
・引用の物語。冒頭に古今の鯨にかかわる文章が掲げられる。それは本文に入ってからもそうで、鯨学や捕鯨船の説明には幾多の書物が縦横無尽に引用される。個人的には、キュヴィエ他の博物書からの引用が興味深い。ちなみに書かれた1850年には、まだダーウィンは「種の起原」を発表していない。作家はラマルクほかの進化論を参照していないが、その前のキュヴィエなどの博物学の知識で鯨を解説していた。博物学というと、イシュマエルの知識では科学と文学の区別はなく、どちらも同じくらいの正確さを持つ者として引用している。これは当時の博物学がそういうものだったからだろう。というような脱線をおいておくとして、最大の引用先は「聖書」に他ならない。イシュマエル、エイハブ、イライジャなどの人名は聖書に由来するという。他の人名、船名、地名などにも聖書由来の言葉がたくさんあるらしい。すなわち、作家はこの小説の引用から引用先の文献の意味を即座に了解し、今読んでいる「白鯨」の物語に意味づけできることを望んでいる。(なので、聖書、とりわけ旧約聖書には不分明な自分には満足な読み取りはできるはずもない。)

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2016/10/04 ハーマン・メルヴィル「白鯨 上」(新潮文庫)-2 1850年 に続く。


 Call me Ishmael. のさまざまな変奏。

  • まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ。(新潮文庫:田中西次郎訳)
  • わたしのことはイシミアルと呼んでもらいたい。
  • 私の名はイシュメイルとしておこう。
  • イシュメール、これをおれの名としておこう。
  • わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう。
  • おれをイシュメールと呼んでくれ。

(名乗るほどのもんじゃござんせんが、イシュマエルってえケチな野郎でござんす。私訳)