odd_hatchの読書ノート

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マルティン・ハイデッガー「形而上学入門」(平凡社ライブラリ)-2「シュピーゲル対談」

 ハイデガーは、1933年4月21日にフライブルグ大学の総長に就任。5月1日に同僚とともにナチスに入党。5月27日就任演説でナチスを礼賛したように取れる文言があった(「ドイツ大学の自己主張」)。戦後、当時の講義がいくつかまとめられ、そのなかに1935年夏の「形而上学入門」講義で、ナチスへの言及と思われる文言(「この運動の内的真理と偉大さ」)があった。しかし、ハイデガーは、戦後ナチスとの関わりについては沈黙し続けた。この平凡社ライブラリー版には、1966年の「シュピーゲル対談」が載っている。上記のように戦時中に関するインタビューを雑誌シュピーゲルが申し込み、ハイデガーが受諾して行われた。ハイデガーの意思により存命中は公表されず、没後発表された。


 インタビュー中のハイデガーの言をおれなりにまとめるとこんな感じ。
・フライブルグ大学の総長就任は、ほかの教授に頼まれたところから。断るつもりでいたが、すでにでなければならないところまで進んでいたので、やむなく。「ドイツの大学の自己主張」と就任演説で言った。でもそれはナチスとは別のやり方でするつもりだった。
・総長就任時期にフッサールと距離を置くようになったけど、就任とは無関係。仲たがいしたといわれるけど、フッサールには図書館使用の便宜を図ったよ。
・就任前にはナチス学生団にいろいろと要求されたが、拒否したし、総長就任中に、ナチスの命じた焚書を禁止した。でも折り合いがつかなかったので、1934年に辞任。それ以後の講義はナチズムとの対決を意図していた。しかし、ナチスの監視は続いていた。1944年には土木工事に従事していた(おなじところでカール・バルトも動員されていたという)。
 自分は、ナチスに利用されただけで、できる範囲で抵抗したし、むしろ被害者。いくつかの文言で誤解を受けたが、それは読み手の誤読によるもの。というのが、ハイデガーの言い分。詳しい検討は専門家にまかすとして、「形而上学入門」とあわせた限りでは、ハイデガーナチス関与はあったし、ナチス思想には共鳴していたと思う。誰が言ったか忘れたが、ハイデガーは突撃隊(SA)のような「永久革命」に共感していたが、1934年6月末から7月初旬にかけての親衛隊(SS)による粛清でSAの運動が壊滅したときに、離反したという解釈がよく説明していると思う(でも、ハイデガーの総長辞任は1934年4月なんだよなあ)。
 インタビュー当時にはハイデガーの関心は広がっていて(移行していて?)、技術(テクネー)への言及が多い。(戦後のハイデガーの考えは木田元ハイデガーの思想」岩波新書がわかりやすい。)

「近代的技術の惑星的運動はひとつの威力であり、歴史を規定するそれの偉大さはどんなに大きく評価されてもされすぎることがないほどです。この技術の時代にいかにして一つの――そしていかなる――政治組織が伴いうるかという問いです。この問いへの答えを私は知りません。その政治組織がデモクラシーであるとは私は確信しておりません(P383)」

「人間の無根化はすでに存在しているのですから。われわれはかろうじて全く技術的な諸関係だけを持っています。今日人間が生きているところ、それはもはや大地ではありません(P386)」

「哲学は現在の世界の状態に影響を及ぼしてこれを直接的に改変するようなことはできないでしょう。(略)かろうじてただ神のようなものだけがわれわれを救うことができるのです。われわれ人間はただ一つの可能性しか残っていません。すなわち、思惟において詩作において、この神の出現のための、あるいは没落期におけるこの神の不在のための一種の心構えを準備するという可能性です(P389)」

 1935年の「形而上学入門」では、アメリカとロシアの力(狂奔する技術と平凡人の底のない組織との絶望的狂乱)のために「大地の精神的退落はひどく進んでしまって(P70)」から、それに抗するドイツの哲学と民族運動が重要といっていた。その意図で「形而上学入門」は講義された。でもその願いは、アメリカとロシアの力でもって粉砕され、世界中を精神的退落が回復不能なところまで完成しているというのがハイデガーの認識、といえるか。哲学的な解釈はおいておくとして(よくわからんし)、政治的にはハイデガーは完敗して、ニヒリズムに落ち込んでいるというのが「シュピーゲル対談」を読んでの感想。政治運動で完全に敗北して打ちのめされて、政治的発言をしなくなった姿とみる(その点では、昭和天皇の経験に重ねることができると思う。昭和天皇ポツダム宣言受諾で政治的に敗北して、以降政治運動や発言をしなくなった)。
 こうみると、ハイデガー存在論現象学に不満(というかひっかかりというか)があるのは、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」の問いがなかなか国家や社会や政治や倫理などに結び付かないところ。自分、<この私>が存在することへの疑惑とか不安に囚われるのは大いにあるのだが、その疑惑や不安は国家や社会の政治経済の不備によるものがあって、ここをうまくまわすと疑惑や不安の一部は解消できる。ただそれは存在論現象学からはなかなか出てこない。ハイデガーにしてそうであって、「存在と時間」や「形而上学入門」での存在への問いの先に、「ドイツ民族」や「ドイツ語」の優位が出てくるとなると、現在を肯定する運動に巻き込まれる、そして積極的に推進する側になってしまいそう。ハイデガーのように死を見つめていると、自分の死の価値が低くなって、民族のために散華するのは当然とおもうようになったり、他人の死に無関心になって大虐殺を平然と命令し遂行したりするようになりそう。きっとそれは読者の側のハイデガーの考えの誤読にあるのだろうけど、誤読しないような周辺知識をもってからでないと、ハイデガーには近づかない方がよさそう。

 木田元ハイデガーの思想」