2015/12/17 ジョージ・スタイナー「ハイデガー」(岩波現代文庫)-1 の続き
2 存在と時間 ・・・ (承前)。本来的な自己の回復は、「もはやそこにないこと」に直面することで行なわれる。そのような無において自己の全体性と有意味性を把握することが可能になる。しかし、「もはやそこにないこと」を生のうちに直面する限り、全体性は現れない。終局に到達するときに全体性が現れるとすると、人間は生にあるうちは全体性を把握できないのである。そこに死の重要がある。人間は死を第三者をしてみることはできるが、それは「もはやそこにないこと」を自己に当てはめているわけではない。<私>の死を見ることにおいてのみ存在が現れる。<私>の死は譲渡不能であり、それゆえに生を確認する現象である。現存在はいまだ-ない、未成熟である。人間は実存的な終点(死)を不安を通してわが身に引き受けるのであり、人間の絶対的な条件である。ラ・ロシュフーコー公爵が「太陽も死もじっと見詰めることはできない」といっているのを思い出して、ハイデガーのように死を直視し続けるというのはなかなかに大変なこと。それも<私>の死という譲渡不能で一人で引き受けなければならないことであるとなおさら。まあ、おいらが思うのは<私>の死にとらわれると、他者の死に鈍感になうことであって、凡庸な人間は<私>の死を直視している(態度を示す)私は優越な立場にあり、存在の頽落をむさぼっている他人の死には意味がない、と傲慢になることかな。その一方で、「本質」は有限性になしに現れない、無限性あるいは時空間を超越したところに本質はないという反プラトンの考えがあるという視点がおもしろい。まあ、著者は、ハイデガーは形而上学の歴史を乗り越えることを目していたが、「存在と時間」の後半において形而上学にからめ捕られていると指摘する。ミイラ取りがミイラになったのである。
さて、このあと、ハイデガーは時間の考察、そこでは「運命」「命運」「歴史」が登場するのだが、自分にはもはやなにをいっているのかわからない。
3 ハイデガーの現在 ・・・ 戦後のハイデガーは秘教的に語るようになった。存在の現前性と全体性の実現は思考と詩作にあり、それらは存在へ至る道具、媒介となる。詩や視覚芸術(絵画が主)は、大地に深く沈んでいる存在の泉から光にまで組み上げる。また技術についての思考も重要。技術は自然(ピュシス)に内在しているものを手に触れる、明るみに出すことであった。それが残っているのは農業のおいて。工業や現代技術は存在を覆い隠し、自然の生産性を破壊し搾取している。それはアメリカとソ連の超大国の文化に現れている。このあたりの思想は、ついていくのが難しい。
再び彼の生涯におけるナチス加担と戦後の沈黙に触れられる。著者はハイデガーの態度を「農民的こうかつさ」と表現する。そのようなずるさと尊大さ(大学教授という職を離れないこと)などをみる。(ここを読んで妄想したのは、ハイデガーの態度に批判があるのは、(西)ドイツ政府の戦後処理と著しく異なるところにある。政府は、ナチス加担者の時効を認めず、自国の裁判で断罪したし、ナチス模倣の言動は思想・良心の自由があっても現在に至るも犯罪とされる。そういう徹底性と比べて、ハイデガーの優柔不断というかあいまいさが目立つ。6年間の教職停止で法的処罰は終わっていても、知識人・思想家としての責任は放棄しているわけだから。野村二郎「ナチス裁判」講談社現代新書、望田幸男「ナチス追求」講談社現代新書が参考になった。どちらも1980年代の古い本だが)。
さて、ハイデガーの注目点を以下のようにまとめる。
1)文体の特異性、
2)人間の疎外と頽落に関する苦悩: ここにはふたつの起源があり、まずアウグスティヌス的キリスト教のペシミズムと警告の系譜(ルター、パスカル、キルケゴール)。社会学(デュルタイ、マルクス)、
3)ルソーからの反商業的自由主義をとる農業(大地)の人、
4)ソクラテス以前のギリシャの思想に戻ろうとする原初主義(プライマリズム)、5)同時代人(ヴィトゲンシュタイン、ルカーチ)との共通性、
6)戦後への影響(サルトル、カミュなどのエピゴーネン)。
ハイデガーは驚くことの大家であって、それは強烈な魅力を持っている。その予言的で重大であるが、彼は自分の立てた問題に答えることには挫折している。
ハイデガーの魅力の一つは、彼の文章を読むと自分の頭がよくなったような気分を味わえること。とはいえ自分の読んだのは「形而上学入門」と「言葉についての対話」のふたつだけなので、大げさにすぎるといわれるのは甘受。ともあれ、彼の執拗な語源詮索と、そこからさまざまな意味を読み取り、それが「存在」の神秘につながっていくところ。発見しているのはハイデガーのはずなのに、なぜか自分が優越に立っているような気分にさせる。翻訳でしか知らないが、ハイデガーの言葉のマジカルな力なのだろう。
そうなると、ハイデガーにひれ伏すようになり、自分で考えるのではなく、ハイデガーの考えたことをコピー-ペーストするしか能のない読み手になってしまう。専門家でもそういう魔力の圏外に逃れるのはむずかしく、なかなか適切な距離を持つことが難しい。ハイデガーの本だけではなく、他の思想家との関係まで書くのはなかなかみられない。著者はハイデガーの距離の置き方が絶妙。マルクスやエルンスト・ユンガーまででてきて、アウグスティヌスやキルケゴールとの類縁関係などは、他の解説書だとみることはめったにない。ナチス加担、戦後の沈黙の事実を調査したうえで、彼の人間性まで言及しているのはフェアな態度だと思う。
では、自分のためになったかというと、上記のようにまとめてはみたものの、漏れているところは多々あり、特異な語彙の語源までさかのぼるような丹念な読書というわけにはいかず、まだまだおいらにはよくわからない思想だということを再確認することになった。なにか重要なことがそこに語られているようだが、そこに入ることはできなかった。それでも、人間の存在の頽落と死の可能性から逆照射される生の可能性の分析は見事、この記述(たぶん「存在と時間」の前半にあたるのだろう)には魅了された。