odd_hatchの読書ノート

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マルティン・ハイデッガー「形而上学入門」(平凡社ライブラリ)-1

 たしかに哲学に熱中した一時期があって、そのときにこの「形而上学入門」を読んだ。そのときの線引きが今でも残っていて、読んで興奮した記憶を思い出せる。でも、それから四半世紀を超えて、今では「存在」という厄介な問題は、科学の「素朴実在論」でいいやと思うようになっているので(まあ、デカルトの方法的懐疑以降の存在論はよくわからんし、感覚とうまく合わないからという消極的な理由)、ハイデッガーの議論を読んでも、活字が素通りしてしまう。
 実存主義ハイデガーはそう呼ばれることを嫌ったらしいが、高校の倫理社会の教科書の記述に沿う)の解説書に専門家の記述があるので、この本の議論を素人の自分が要約すれば誤りだらけになるだろうからやらない。ただ、「存在と時間」の啓蒙書や解説書はたくさんあるけど、「形而上学入門」の啓蒙書や解説書はあまりないような。まあ、昔の書店の棚を思い出していうだけの、根拠のないことですけど。

 この本では最初に問いが置かれる。「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」 ここから執拗な議論というか解説というか、語源論というか、どのページをみてもほぼ同じことを書いているような記述が続く。「存在についての問いは言葉についての問いと最も内的にからみあっているだろう(P91)」ということなので、議論の大半はドイツ語やギリシャ語の「存在」に関係する言葉の詮索、ヘラクレイトスパルメニデスらのソフィストソクラテス以前の古代ギリシャの哲学者の断片の検討に費やされる(となると、日本語でこの問いを考えることの価値や意味は?と思うが、まあおいておくことにする)。
 気になるのはつぎのような文章が間に挟まっていること。

「ヨーロッパは今日救いがたい盲目のままに、いつもわれと我が身を刺し殺そうと身構え、一方にはロシア、一方にはアメリカと、両方から挟まれて大きな万力のなかに横たわっている。ロシアもアメリカも形而上学的に見ればともに同じである。それは狂奔する技術と平凡人の無底の組織との絶望的狂乱である(P70)」

「われわれドイツ民族はまん中にいるので、万力の一番きつい重圧を経験している。われわれは最も隣人の多い民族であり、したがってもっとも危険にさらされた民族であり、そのうえさらに形而上学的な民族である。われわれはこの天命を覚悟しているのだが、しかしこの天命からわが民族が自分の運命を成就するとすれば、それはただ自己自身の中に反響を、この天命の反響の可能性をつくりだし、自己の伝統を創造的に把握するときだけであろう。これらすべてのことは、歴史的な民族としてのわが民族が、自己自身および、ひいては西洋の歴史を、それの将来的生起の中心から存在の諸力の根源的領域の内へと取り出しておくことを含んでいる(P71)」

「われわれは、存在についての問いをヨーロッパの運命と関連させたのであって、ヨーロッパの運命の中で大地の運命が決定されるのであり、しかもその場合ヨーロッパそのものにとってわれわれドイツ人の歴史的現存在は明らかに中心をなしているのである(P77)」

「今日、国家社会主義ナチス)の哲学として横行しているが、この運動の内的真理と偉大さと(つまり地球全体の惑星的本質から規定されている技術と近代的人間との出会い)には少しも関係ないあの哲学のごときは『価値』と『全体性』とのこの濁流の中であてずっぽうに網打漁をしているのである(P323)」

 この講義は1935年に行われて、1933年のナチス政権誕生後に、フライブルク大学の総長に就任したり(就任演説が重要とのこと)、辞任したり、ナチスに入党したりと身辺はあわただしく、ドイツ敗戦後にはナチス関与の疑惑が取りざたされた。そのときに、特に最後の引用は重要な証拠とされたりした。このあたりも研究が進んでいるので(自分の知識は1980年代止まり)、別に啓蒙書や参考書を見てください。
 存在を問うときに、民族が出てくることの奇妙さ。そういう歴史的な、一回限りのできごとを捨象するところから「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」 の問いが生まれると思うのに、そうはならないこと。笠井潔「哲学者の密室」によると、「存在と時間」でも存在することの意義や意味を「民族」に見出しているようなので、この講義でふいと口走った失言というわけではないのだろう。
 柄谷行人も「探求」その他で、内省から始める思考では他者(言語ゲームを共有しない人)の視点を持つことができないので、共同体の内部にとどまるというような批判をしていた。