odd_hatchの読書ノート

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ウィルキー・コリンズ「月長石」(創元推理文庫)-2 この小説には「探偵」がいないが、手記を集め編集した者こそ「探偵」と呼べるかもしれない。

2018/02/22 ウィルキー・コリンズ「月長石」(創元推理文庫)-1 1868年


 この長編は事件にかかわったフランクリン・ブレークが関係者に手記を書くように手配し、ほとんど手を加えないで、つなげたという趣向になっている。事件全部にかかわる「探偵」はいないので、こうやって場面や場所ごとのもっとも事情を知る人の証言を集め、読者は語り手が信用できるかを判断しながら、全体像を再構成する作業が必要になる。

第二期 真相の発見(一八四八-四九年)
第一話 故ジョン・ヴェリンダー卿の姪、クラック嬢の寄稿 ・・・ レイチェルはロンドンの邸に移動。フランクリンは外国に出てしまっている。ロンドンでは、ゴドフリーがなにか高価なものを宝石店兼金貸しに質入れした。すると、ゴドフリーと金貸しを三人の見知らぬ人間が襲い、拉致したうえで、身に着けているものを探るという事件が起こる。ゴドフリーが「月長石」を質入れしたのではないかという噂が立つが本人は否定。レイチェルはゴドフリーと婚約するが、ヴェリンダー夫人が心臓病で死亡。その直後に、レイチェルはゴドフリーとの婚約を破棄し、弁護士ブラッフの家に寄宿することにする。
(この章の書き手は独身のまま老年になった女性。金と暇があるので、慈善団体に入り、怪しげな新興宗教の信徒になって布教活動にいそしむ。おかげで誰からも無視されたり毛嫌いされているが、彼女の高貴な心は人々の無知と無信心に対して自分の勝利を確信するのである。そういうはたからはやっかいな人間であり、集合観念に取りつかれた「狂信者」の手記。そのために、さまざまなギャグがしこまれている。死期にいたった夫人の家に宗教パンフレットを置いておくと返送されて唖然としたり、夫人の死と葬儀の描写でフランクリンと手紙でダメ出しと抗議がやりとりされたり、レイチェルの婚約破棄にあたって自分が後見人になると言い出して顰蹙をかったり。事件が動かない(むしろレイチェルの婚約破棄にてんやわんや)ので、こういうコメディリリーフが物語を盛り上げる。宗教狂信者はドスト氏の小説にもでてくるが、ドスト氏の小説では物語の思想的核心をつく重要人物になるのに。政教分離、宗教の世俗化が完了しているイギリスでは宗教狂信者はけむたがれるのね。)

第二話 クレイズ・イン・スクェアの弁護士、マシュウ・プラッフの寄稿 ・・・ ヴェリンダー家の顧問弁護士の回想。ゴドフリーが夫人の死の直後に、遺書を閲覧したこと(イギリスでは手続きを踏めば誰でも他人の遺書を閲覧できたらしい)。彼が素寒貧なのをレイチェルに説明して、婚約が破棄された。インド人の首領が弁護士に金を借りにきて、情報を入手した。ダイヤモンド紛失のときに屋敷にいた紳士がインド人が次の奪取の機会(質入れの一年後)をねらっていると推理を披露する。
(「白衣の女」にも出てきたように、秘密結社の存在が示唆される。イタリア、インドとイギリスの帝国主義的覇権を脅かす運動には、秘密結社やテロリストグループがあると思い込んでしまう。そういう別の理由をつけないと、市民運動や抵抗の理由を合理化できないからねえ。リアルではだめな思考だが、エンターテインメントでは物語を推進する力になる。)

第三話 フランクリン・ブレークの寄稿  ・・・ あれから一年。外国周遊中のフランクリンは父の死により遺産を相続する。急いで帰国。ベタレッジに再開すると「びっこ(ママ)」のルーシーはフランクリン宛の手紙をもっているという。訪ねて手紙を受け取ると、そこには流砂に隠した箱があると書いてある。危険をおかして回収すると、そこには長い手紙とフランクリンのナイトガウン。そこには例のペンキのシミがついている。それによると、ダイヤモンドを盗んだのはフランクリン自身。動転したままレイチェルに無理やりあうと、抱擁、キスのあと突然の拒絶。というのも、レイチェルはあの夜、フランクリンが寝室に忍び込んでダイヤモンドを盗んだのを目撃したから。それを内緒にしていたのに、一年前のなんという仕打ち、あなたなんか大嫌い。傷心のフランクリンは再びヴェリンダ―家に戻ると、そこにはキャンディ医師(あの夜のパーティ参加者)の助手エズラ・ジェニングスにあう。キャンディはあの夜の雷雨にあたって人事不省。うわごとを記録していたが、それがフランクリンの話を合理的に説明できるという。その中身にフランクリンはすっかり納得したが、ジェニングスは法的な証拠にはならないという。なので、もう一度、事件の夜を再現する実験をしようと提案する。またロンドンの宝石店にダイヤモンドが質入れされた経緯は説明できない。
(フランクリンは事件の後、外国を放浪する。これは「白衣の女」のウォルター・ハートライトと同じく、未成熟な青年が義務と責任を果たす大人の男に生まれ変わる儀式にほかならない。あいにくフランクリンには博物学旅行のような冒険は訪れず、たんに若いころのあやまちで作った借金が返済できて、心の中の重荷がなくなった程度でしかないが。むしろ、彼の成長の儀式は、このあとのエズラ・ジェニングスの実験になるのか。なにしろ、あの夜のダイヤモンド盗難事件から形式的には逃亡し、久しぶりに帰還したフランクリンに訪れるのは、エディプスの神話と同じことだから。青年時代の無垢で無知な状況でしでかしたことの意味を改めて突き付けられ、意味を見出さなければならないのだから。そこにおいてベタレッジやジェニングスによって示唆されるのは「汝自身を知れ」という格言。いや、その試練はむしろロザンナやレイチェルによる弾劾にこそあるのかもしれない。ロザンナとレイチェルという二人の女性がそれぞれにフランクリンをかばった理由を知ることこそ、フランクリンには厳しい自己反省を迫るものであったから。
 第一期のベタリッジの手記ではさらっと流してしまうエピソードが、ここにいたって重要になるという、なんとも息の長い伏線がみごと、すなわち、フランクリンは禁煙でいらいらして、パーティにいたキャンディ医師と口論になり、突然和解する。そのときには本筋に関係ないとおもわれたできごとが、事件の遠因であり、真相に肉薄するものであった。20世紀のエンターテインメントではよくあるテクニックだが、19世紀にこれほどの使い手がいたとはなあ。たいていはスティーブンソンやドイルのように、できごとのすぐ後に意味や因果を書いてしまうのだ。コリンズ以前のゴシック・ロマンスでも同様。
 また、あの夜とそのあとの捜査の様子がレイチェルやロザンナによって語られる。読者はベタリッジの報告で知っているだけであるが、そこに別人の視点が入ると、新たな意味が浮かび上がる。なるほどベタリッジは信頼のおける語り手ではあるが、ジェンダーやその他のバイアスがあって、神のようになんでも見通せるわけではない。別人の視点を導入すると、情報を整理して「真相」が浮かび上がる。この小説には「探偵」がいないが、手記を集め編集した者こそ「探偵」と呼べるかもしれない。カッフもフランクリンもジェニングスも探偵の役割を果たすが、ひとりで解決したところは一部分であって全体をみとおしているわけではない。そういうところも加味すると、探偵は手記の編集者といえるだろう。
 おまけ。ゴドフリーはレイチェルに振られたあと、別の資産もちのお嬢さんと結婚。金使いの荒さなどで離婚することになり、にっちもさっちもいかなくなりそうなところ、クラック嬢(第一話の語り手:ゴドフリーはクラック嬢が参加する慈善団体の主宰者)に遺産をもらって事なきを得る。第一話のコメディリリーフがここでも活躍し、ギャグを完結させる。なんとも読者にサービス熱心な書き手だこと。感心。)


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2018/02/19 ウィルキー・コリンズ「月長石」(創元推理文庫)-3 1868年