odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

イーデン・フィルポッツ「赤毛のレドメイン家」(創元推理文庫) ゴシックロマンスが20世紀にまだ生きていた印。極端な功利主義が他者への軽蔑と嫌悪による殺人を起こす。

 1920年代の長編探偵小説黄金時代の劈頭を飾る大作(1922年)。1970年代までミステリ初心者の必読作品とされた名品。初読の高校生(記憶は中学生だが、記録は高校生。うーん俺の記憶はどうなっている)の時は、もちろんびっくりしましたよ。それからだいぶたって再読。

 赤毛が代々遺伝するというレドメイン家(ちなみに当時は人類遺伝学の隆盛期。多分に人種差別を含む)。今では独身男三人に、美貌の末妹ジェニーだけがのこる。この妹が結婚しようとしたとき、末弟のロバートが怒り狂う。大戦に従事もしなかった軟弱男マイケル・ペンディーンに妹をやれるものか。大戦から帰還した末弟はいちゃもんを続け、すでに結婚したマイケルを呼び出す。二人の姿はない。マイケルの家には多量の血痕。二人はどうしても見つからないので、末妹ジェニーは三男の元船員ペンディゴの家に身を寄せる。そこにはイタリア人ジョゼッペ・ドリアがボートの運転手として雇われ、ジョニーに言い寄る。この事件に最初から関係した警察官マーク・ブレンドンはジェニーを憎からず思っているので、ドリアの馴れ馴れしさに胸騒ぐ。すると、ロバートが周囲にいるといううわさが。ペンディゴに会いたいというので、出かけていくと、襲われたらしく多量の血痕が。ロバートはまたしても行方不明に。ジョニーは次男アルバート(長男はすでに死亡)のもとに身を寄せる。アルバートは優秀な探偵ピーター・ガンスを呼ぶことにし、マークとふたりで事件に当たらせる。ピーターとジョゼッペが事件を推理している散歩中に、突然ロバートが現れ姿を消す。うろたえるジョゼッペ。そしてピーターとマークはアルバートを守るべく、犯人を誘い出す罠をしかけることにする。
 高校生(中学生?)には歯ごたえがありすぎたのは、悠揚迫らざるゆったりした展開に、雄弁な会話。丹念な風景描写に、含蓄深い説明。ほぼ同時代のクイーンやカーに比べると、スピードがのろく、キャラが立っていない。でも、数十年を経て読み直すと、これらの「欠点」はむしろ長所であるのがわかる。すなわち、1860年生まれとすでに老境にある作家は、新しい探偵小説を構想したのではなく、19世紀のイギリス文学の伝統(とくにディケンズやコリンズ)を継承していたからだ。なので、キャラの立たないと見えた人物もイギリス文学の伝統の中に置けば、生き生きとした存在として表れ、彼らの挙動のひとつひとつがイギリスの風俗(とくに中産から貴族階級)を描いたものと知れる。探偵ピーター・ガンスの影がうすいのも、ホームズのような名探偵の個性によらない(古いタイプの)小説を書いていたから。
 上のサマリーにあるように、「赤毛のレドメイン家」はゴシックロマンスの伝統を継いでいる。イギリスの古い、没落しつつある名家。埋もれた財宝(利用されていない財産の行方が問題)。湖沼や田舎にある城砦。繰り返し現れる幽霊。確執のある家族に起こる犯罪。この小説で最も印象的なのは、この時代にしては激情家のレドメイン家の末妹ジェニーであるが、上のような家族の物語と同時に進行するのは、ジェニーへの迫害と追い込み(夫が殺され、家がなくなり、新しい婚約者を見つけると指弾されたりというような)。気丈なふるまいとときおり見せる弱さの対象が彼女に起きた悲劇をさらにドラマティックにする。あるいはジェニーには、彼女をめぐる複数の恋愛があり、その主導権を常に握り、相手を自分の意志で決めていく。この存在のはかなさと意思の強さの乖離。これもまたゴシック・ロマンスの仕掛け。そして謎解きにおいても、目新しいトリックなどはなく(存在しない死体、繰り返し現れる幽霊というのはゴシック・ロマンスの定石)、秘められた家族関係にある。
 犯人は超人思想もどきを披露する。この動機、というか犯人の思想を江戸川乱歩はずいぶん称賛した。この無反省で肥大した尊大な自我と、他者への軽蔑と嫌悪、社会規範の無視は、たとえばドスト氏の「地下室」の思想(「地下室の手記」、ラスコーリニコフ罪と罰)を思い出してもよい。でも、ここではフィルポッツのほかの作品との類似をみたい。すなわち、犯人の思想はそのまま イーデン・フィルポッツ「医者よ自分を癒せ」の主人公のものである。おなじく、イーデン・フィルポッツ「闇からの声」 の探偵の思想は犯人の思想の裏返しにあたる(この二作は「赤毛のレドメイン家」のあとに書かれた)。この系列で読むと、犯人の超人思想はドスト氏やニーチェのような「地下室」@シェストフから来たものではなく、イギリスの貴族階級の驕りに由来するように見える。犯人の考えの由来が社会からの拒否や貧困にあるのではなく、生まれついての人間嫌悪や蔑視にあるところがその理由。連続殺人も必要に迫られてというより(財産獲得にあるのではなく)、サイコパスの快楽殺人の系譜にいれたほうがよい。それほどに殺人の動機はあいまい。そのあいまいさは20世紀的な異常心理であるより、王のむら気に似ているとみたほうがよい。
 あるいは、極端な功利主義とみてもよいかな。ベンサムやヒュームのイギリスの功利主義では社会の幸福の総量が最大になることが重要であって、そのさいに個人が不利益をこうむることを肯定することになる。一人の犠牲で万人が幸福になるなら犠牲はしかたがないという考えを、功利主義は否定できない。個人の人権や尊厳と、とくに不遇な人が獲得できる便益を最大にできるようにするという考え(サンデルなど)と相いれないのだ。この極端な功利主義を行使するのが、ラスコーリニコフ(このあと「罪と罰」を再読したが、この見立てでは不十分でした。ラスコーリニコフの犯行は功利主義ではないです。恥かきを記録)であり、本書の犯人。そして、ヘイトクライムの加害者もまた同じような功利主義で、自分の犯罪を正当化しようとする。日本でも障がい者を大量殺戮した加害者が同じ考えを表明していた。
 という具合に、この長編は長編探偵小説黄金時代の劈頭を飾る大作というより、ゴシックロマンスが20世紀にまだ生きていた印とみた。乱歩が黄金時代の名作長編の第一位に推したので、この国ではモダンな本格探偵小説という位置づけだが、そうではないな。コリンズ「月長石」ウィリアムソン「灰色の女」のあとに並ぶ作品。そしてその系譜でも傑作になる。