odd_hatchの読書ノート

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ウィルキー・コリンズ「月長石」(創元推理文庫)-1 インドから強奪した宝石は植民地経営によって富を得た一家に禍いをもたらす。イギリスの凋落を予感させるできごと。

 1868年発表の長編。大長編。活字が小さくて行間の狭い創元推理文庫版で770ページもある。このごろのゆったりしたレイアウトにしたら1200ページを超えるのではないかしら。

プロローグ セリンガパタムの襲撃(一七九九年) ある家の記録よりの抜粋 ・・・ バラモンの秘宝「ムーンストーン」(ダイヤモンド)は「四本の手の神」の額に象嵌されていた。1799年の襲撃のとき、イギリス軍兵士ジョン・ハーンカスルが宝物庫に押し入り、インド人を殺し、3人目に呪いをかけられた。以来、ムーンストーンは行方不明。
(冒頭はゴシック・ロマンス的な因縁譚。事件のおきた1799年、インドはイギリスの植民地化が進行中。インド人による抵抗があり、イギリス軍が強圧で対抗していた時期。ここに記載された襲撃事件は現在の視点ではイギリス軍が悪であるが、小説当時は正当化されていた。そういえば初出1868年のまえにはインド大反乱セポイの乱、1857年から1859年)があって、イギリス内にはインドへの偏見や憎悪(その裏返しの恐怖や畏怖)があったと思われる。作中に登場する「三人のインド人」はその反映かもしれない。ここは気を付けておくべきで、作品に流れるレイシズムには敏感であるようにしよう。
 でもレイシズムは主題ではないので、第1部の怪異端に話を移す。)

第一期 ダイヤモンドの紛失(一八四八年)
ジュリア・ヴェリンダー夫人の執事ガブリエル・ベタレッジの手記 ・・・ それから50年。イギリスに帰国して孤独に暮らしていたジョンは死期を悟り、ムーンストーンを娘に贈る遺書を書いた。その甥フランクリンがダイヤモンドを携えて、ジョンの妻の暮らすヴェリンダー屋敷にやってくる。娘レイチェルの18歳の誕生パーティの夜、村の紳士淑女が招待された中、レイチェルはダイヤモンドを身に着けて現れた。驚く人々。雨で散会した翌朝、レイチェルはダイヤモンドがなくなったと訴えた。パーティのまえに邸の周囲では三人のインド人(どうやら上流階級を思しき人が手品師となっているらしい)が奇術を見せて、逮捕されていた。犯人は彼らと思えたが、当然アリバイがある。現地の警察署長ではらちが明かず、ロンドンからカッフ部長刑事がやってきた(不思議なのは警察組織の一員なのに、ヴェリンダー家は彼に報酬を払う)。このバラ好きの探偵は屋敷の園丁とバラの育て方の議論に熱中する。誕生パーティの数日前に、レイチェルの部屋にペンキを塗っていて、傷跡が残っている。誰かの服にシミがついているはずとカッフは推測し、執事や女中などに聞き込みをするが、そこはジェントルの邸であって、協力的ではない。そのうえ、フランクリンはレイチェルに、レイチェルは従兄ゴドフリーに、女中ロザンナ(窃盗の逮捕歴あり)はフランクリンに、それぞれひとめぼれ。それぞれが自分の恋心に基づき行動するものだから、事件はややこしい。このなかでロザンナは頻繁に外出している。その末に屋敷近くの海岸で流砂にのまれてしまった。レイチェルにあてた遺書が見つかり、自殺とされた。レイチェルはヒステリックな興奮状態になり、屋敷を飛び出してしまう。ここにいたって、カッフはロザンナの協力をえたレイチェルの犯行(自作自演?)と推理を下す。激昂したレイチェルの母は、カッフを解任。レイチェルのもとにいって問いただしたが、自分ではないと言い張る。進退迫ったカッフは、執事に3つの予言(ロザンナの手紙が出てくる、三人のインド人のうわさを聞く、ロンドンの高利貸しのうわさを聞く)を残し、ロンドンに戻った。それから一週間もたたないうちに、執事はそのすべてが実現したことに驚く。
(1970年代までは、「月長石」は「世界最初の、世界最長の、世界最高の長編探偵小説(たしかT.S.エリオット)」の評価がついていた。今となってはさてどうか。探偵小説の定義で「最初」はいろいろみつけることができる。最長という点では、創元推理文庫ではハインライン「異星の客」、サバチニ「スカラムーシュ」とこの三冊が厚い本だった。あとで笠井潔「哲学者の密室」が更新。「世界最高」の評価は人それぞれということで。
 このような形容がついてはいるが、事件はひかえめ。インド由来で呪いがかけられたといわれるダイヤモンドの盗難。事件の重大容疑者の「自殺」が起こるくらい。エピローグと第一期だけで300ページ強の長さになり、第一期では数日のことしか書かれていない。事件が起こる誕生パーティは丹念に書かれ、そこには村の名士たちが集まるが、彼らへの尋問は行われない。クリスティのような村の住民を巻き込んだ事件なのではなく、ヴェリンダー家内部の問題とされる。作中にあったが、それまで平穏無事に暮らしてきた一家がダイヤモンドという富とステータスの象徴にふれることによって、分裂してしまった。なので、作家も部長刑事も家族にフォーカスする。すると、イギリスの上流階級の不安や不満の萌芽を見出すことができる。インド植民地経営によって富を得た一家(ほとんどイギリスそのものだ)ではあるが、2代目、3代目になると、経営には興味がなくなり、家族の維持発展も関心事ではない。家に押し込められる女性にはストレスがたまりつつある。当主のジュリア夫人(ジョンの妻)はつねに不機嫌で腹を立てやすく、娘レイチェルは激烈な感情爆発を起こし(当時は言葉がなかったヒステリー患者)、ロザンナは不美人であるという自覚でいじけていて(女中仲間のいじめにあっている)、最近手伝いを始めたペネローペも不安を持ち、ロザンナが懇意にする漁師にはひきこもりぎみの「びっこ(ママ)」の娘がいるという具合。男はフランクリンくらいしかいないが、こいつは世界を放浪する軟弱もの。執事のベタリッジは70歳の高齢。繁栄の絶頂にあるはずのヴェリンダー家(ほとんどイギリスそのものだ)は衰弱がみられ、解体の危機にあるのだ。それが19世紀の半ばにおいて無意識にあらわれている(ほぼ同時代のブルワー=リットン「幽霊屋敷(龍道鬼談とも)」でも、同じテーマが隠されていた)。そこが興味深い。このあと第二期では、ダイヤモンドの行方を捜すことになるが、それは富とステータスの象徴を奪還することで家族の再生を願うことにほかならない。さらにいえば、この富とステータスの象徴は実際のイギリスがそうであるように、インドからの収奪物であり、イギリス自身が生産したものではない。イギリスの繁栄も虚像であり、それ自身には価値を生み出す力がないことを示しているようだ。
 第一期の書き手はヴェリンダー屋敷に半世紀も務める執事。当時70歳であるが、この人物が愉快。学はないが、屋敷の誰よりも知的で分析的であり、人物観察眼に優れている。それというのも「ロビンソン・クルーソー」の熱心な読者であり、この本には人生のすべてが詰まっていると思うのか、ときに占いのように読み、警句をその時点の導きとするのである。事件においては屋敷の住民の利益になるように行動し、娘ペネロープがフランクリンに興味を持っているのを心配し、元不良ロザンナの行動や心理に気を付け、フランクリンの良いアドバイザーになる。彼の高齢は家族の危機を救うことはできない。しかし高潔な人格とユーモアは家族のそれぞれの心配事を明るみに出し、問題の自己解決と慰めを与えることができる。上流階級のやんごとなき人々より執事や警官のような下層階級との間にある人々のほうが、知的で人格に優れているという見方は当時としては新鮮だったはず(追記:と書いたら、イギリス文学には「執事もの」というジャンルがあるらしいと知った。自分の無知でした)。
 部長刑事のカッフもバラの愛好家で、捜査の合間には園丁をつかまえて議論を交わすという優雅さをみせる。執事のベタリッジとの会話(たがいに嫌悪と愛情を感じている)を読むのはこの小説の大きな楽しみ。)


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2018/02/20 ウィルキー・コリンズ「月長石」(創元推理文庫)-2 1868年
2018/02/19 ウィルキー・コリンズ「月長石」(創元推理文庫)-3 1868年