2024/09/16 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第11編「兄イワン」(承前) 「お前のやりたいことを代わりに俺たちがやったのだ」という大審問官の論理でイワンはスメルジャコフに追い詰められる 1880年の続き
スメルジャコフとの面会と、夜間の行き倒れた百姓の介抱で疲れたイワンは、帰宅した薄寒い暗い部屋に誰かがいるが見える。スメルジャコフに顔色が悪い、幻覚症ではないかと指摘されたのが気にかかる。幻覚症は21世紀の用語でいえば統合失調症の症状とみなせる。ここで思い返せば、ドスト氏はこの精神疾患に関心をもち、小説のキャラクターにこの病気を持たせていたのだった。「貧しい人々」「分身(二重人格)」がそれ。自分の分身がいると思い込み、〈彼〉と話しこむ。自他の境界がぼんやりとして、自分の声が他人からのように聞こえる。
第11編「兄イワン」 ・・・ その〈人〉は50歳に手が届こうかというロシア紳士だった(当時ではとても高齢な老人)。彼はうそぶく。「おまえは俺、俺自身。愚劣で俗悪。君の悪夢で、宇宙空間をひとまたぎ」「人間に化ける堕落した天使で、一切合切が不定方程式(方程式の数よりも未知数の数のほうが多いため、解が無数に存在する方程式)みたい」。こうやって紳士はイワンをさげすみ、からかう。すなわち、イワンが言ってきたことを小ばかにするように繰り返すのだ。繰り返しているところは省いて、この紳士が言ったことを拾おう。
「何事も否定する。苦しみこそ人生、苦しみのない人生にどんな満足がある?」
「神がいるのかいないのかわからない」「信仰と不信の間をつれまわしてみせる」
「荒野で17年イナゴを食って祈っていた連中を誘惑したことがある。それだけしかしてこなかった」
「僕がホザナ(神をたたえよ)と叫ぶと、地上のものがすべて消し飛ぶ。だから義務と立場からいえない。ひとりを救うために、何千人を滅ぼす」
のちにイワンはこの紳士を悪魔と呼び、ドスト氏も章のタイトルに悪魔を使っている。この小説のあとにアメリカのペシミズムな作家が悪魔に語らせる小説を書いた。その悪魔も、ドスト氏の紳士のように人を小ばかにし、何もかも否定する。ドスト氏は2+2=4の固定された答えを押し付けられるのが嫌いだったが、不定方程式のようなこの紳士はお気に入りになるかもしれない。科学が迷信やデマをはびこらせたと合理主義が二人とも嫌いだし。
マーク・トウェイン「不思議な少年」(岩波文庫)
この紳士、悪魔には主張したいことがない。相手が言っていることを繰り返すか、否定する。強い主張を小ばかにし、揚げ足を取る。主張を相対化して、無価値・無意味であると決めつける。行動することをからかい、何をしても無駄と冷笑する。堕落するというのは自分に自信をもてず、何かを創作するのを断念させることなのだろう。「大審問官」も否定の塊だった。彼は組織や集団を維持することしか考えていない。頑なに変化を拒み、大衆が自意識を持つののを妨げる。この紳士はそんな大審問官も小ばかにする。大審問官は断罪・弾劾するが決して誘惑しない。でも紳士は聖人であっても誘惑して堕落させることができる。
最後にイワンは紳士にコップを投げつけるが、すぐにマルティン・ルターの真似かと自嘲した。イワンの思想も行動もオリジナルのように思っていても、実際は先行者がいるのであり、イワンはパロディを演じるしかない(この章も「大審問官」のパロディである)。そのことを自覚させるから紳士は悪魔のような役割をもっている。他人を怒らせ、意地悪く扱い、人を苦しめるすべに長けていて残酷な仕打ちをする。
でもこの行動性向は悪が生んだのではなく、当時の時代思潮の表れでもある。都市に住んで孤立し、自分の命に価値や意味を見出せないモッブが紳士と同じ冷笑家だった。他人がやっていることをあげつらい、からかう。他人の苦しみに無関心で、むしろ他人を辱め虐げることに快感を覚える。紳士がやっていることはモッブと同じ。だから紳士は悪魔であるが、どこかにある外からやってきた異人や〈外国人〉ではない。自己紹介しているように、イワンが喝破したように、冷笑する悪は内にいる。凡庸で怠惰な性格から出てきて、すぐに蔓延する。塁としての人類がモッブのようになったら、「地上のものがすべて消し飛ぶ」だろう。20世紀のナチズムとボルシェヴィズムという二つの全体主義が実際に地上のものを消し飛ぶことをやろうとした。
そこにアリョーシャがやってくる。絶縁を言い渡していたイワンは激昂するが、「スメルジャコフが首を吊った」という報を聞いて愕然とする。イワンはスメルジャコフがついさっき言ったことを思い出す。告発する計画がだめになったことを知り、こう自嘲する。
「君が自尊心から告白に行くとしても、やっぱり心の中では、スメルジャコフだけが罪に落ちて、流刑になり、ミーチャは無罪放免となり、自分はただ良心の呵責を受けるだけで世間の人からはほめられるかもしれないと、そんな望みをいだいていたんだろう。だが、もうスメルジャコフは死んでしまった。」
スメルジャコフも紳士のような否定の塊だった。なれなれしくて皮肉屋で、他人をいらだたせるだけだった。紳士は老人だったが、スメルジャコフが変身した姿でもあるようだ。(にしても、イワンは動転したのか、「悪魔が来た、ちんけな悪魔が」とアリョーシャに言う。神と一緒にいるという確信をもっているアリョーシャの前でそれを言うか!)
こうしてイワンは、空想の分身とリアルの分身から弾劾されてしまった。冒頭では最も自信満々だったイワンが深淵の際まで追い詰められようとしている。
動転したイワンは「おれはリーザが好きだ」を口走ってしまう。これも続編の伏線になりそう。よりによってアリョーシャの許嫁を横恋慕しているという。振り返れば、イワンが好きになるのは、兄ドミートリーが婚約していたカテリーナであり、彼女が自分を愛していないと思い込んでしまうと、今度は弟アリョーシャの許嫁に手を出す。彼は他人の恋人を奪うように行動するのだね。そこが好色なのだし、進んで三角関係を作って「愛されていない」と苦しむように動くのだ。
(ブッキッシュな興味でいうと、紳士=悪魔の長広舌は、「ボボーク」「おかしな人間の夢」の反映。他の訳者は荘厳な言葉使いをするけど、亀山郁夫訳では軽薄な文体でしゃべらせた。オウム返しとからかいだけの中身空っぽなところを引き立たせるには、この文体があっている。)
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