2024/09/12 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第11編「兄イワン」(承前) ドミートリーは世界と神を愛するようになり無実の人殺しの罪を引き受けることを決意する 1880年の続き
2000年ころに新潮文庫がキャンペーンをうった時、「カラマーゾフの兄弟」の帯には上中巻(第1部から第3部まで)を読むのに2か月、下巻を読むのに2日というようなことが書いてあった。これはミステリー読みからするととてもまっとうな感想。というのは、第4部になると父フョードル殺人事件の捜査がストーリーの中心になっているから。事件の目撃者や関係者の証言が並べられ、重要容疑者が尋問に応じ、検事や関係者が事件を推理する。途中で、真犯人の自白があり、最後の第12編「誤審」では裁判でこれまでに記述された事件が再検討される。モダンな探偵小説と同じフォーマットで書かれているので、とても読みやすい。「カラマーゾフの兄弟」が書かれたのは1880年。同時期のコリンズやガボリオなどと比べると、はるかにモダンであり、このあとのコナン・ドイルの長編よりも洗練されている(ただし文字量は桁違いに多いが)。ミステリーに近いとよく言われるのは「罪と罰」のほうだが、書き方は探偵小説的ではない。長大な「カラマーゾフの兄弟」のほうが近い。
第11編「誤審」では、一日かけた裁判の様子が描かれる。ドスト氏はロシアの裁判に興味を持っていて、いくつかの事件では熱心に傍聴していた。ときに裁判の様子をレポートして「作家の日記」で発表し、世論喚起も行った。その成果はこの小説にも反映していて、とても生き生きした裁判描写になっている(いわゆる法廷物のミステリーが登場するのは1950年以降とみなせるので、ドスト氏の試みは先駆的。まあルルー「黄色い部屋の謎」1907年、カー「ユダの窓」1938年のような先行作はありますが)。裁判の様子は西洋や日本とは異なる。証人尋問、検事の論告、弁護人の弁護、双方の反論を経て、陪審員が評決する。この流れはどこも同じであるが、この事件では一日で終了する。そのために、午前から深夜の日が変わるまでの長丁場になった。「作家の日記」に出てくる裁判は日にちを開けて複数回審理を行っているので、「カラマーゾフの兄弟」のこの編は作者によるフィクションでしょう。短時間で審理し、評決があっという間に行われたから、ドミートリーの心理がジェットコースターのように希望と絶望、歓喜と不安、依存と自立を行き来するスリルが生まれた。
裁判には町の人たち、特に名士、が集まり、傍聴する。事件の関係者はこの小さな町の有名人だし、ドミートリーの大宴会は噂になっていた。集まると事件のことをおしゃべりし、噂を伝えあい、判決を予想しあった。そうする理由は娯楽のない街では、人と会うことが大きな楽しみ。そこにスキャンダルがあれば、会う口実ができる。裁判所が一時的な社交場になったのだ。地元の事件でも裁判の傍聴にはいかないし、陪審員になることを迷惑と思う日本人とは感覚が違うところ。
この編では、これまでに書かれてきた事件を再証言する。そこには新しい情報はないので(ドスト氏のフェアプレイ精神が発揮されている)、別の記述に気を取られて忘れてしまった情報を思い出すことになる。関係者の証言が延々と描かれるのは、凡百の探偵小説でも同じ。でもドスト氏にかかると、つまらないどころか、同じ話を読まされてもとても面白く感じる。それは、ドスト氏がそれぞれのキャラクターのナラティブを工夫したから。それぞれのキャラクターに合うような文体と語彙で会話を作ったから。傲慢で勝気なカテリーナ、後悔と愛ですっかり弱気になったグルーシェニカ、興奮して激高し幻覚に苦しむイワン、律儀でへりくだったグリゴーリー老人、前日の深酒で泥酔したスネリギョフ、さまざまな邪推に悪罵を聞かされ自尊心を傷つけられているドミートリーなど、キャラの描き分けはみごと。文体の曼陀羅で、ポリフォニー。
読み飽きない尋問シーンのあとには、一つの事件がいくつにも解釈されるという「多重解決」の趣向もでてくる。20世紀になってからミステリで使われた趣向。通常はどんでん返し目的で最後に「真相」が現れるのだが、ここではさきに「真相」が披露されている(第11編「兄イワン」)。なので、検事や弁護士の解釈は誤りであることを読者は知っている。誤りの推理を読んで、馬鹿だな、あほだなと思うのではなく、ドスト氏の筆と論理を読み込むと、そちらが正しいのではないかと思えてしまう。弁護士の長広舌の弁論のあとに、傍聴人たちがドミートリーの無罪を確信したように。
このように最後の編はドスト氏の技術を堪能するにかぎる。探偵小説やミステリを読み込んでいる人ほど面白がれるだろう。
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