odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

原卓也「ドストエフスキー」(講談社現代新書)-1 「ペテルブルク」「革命」「シベリア」「ロシア正教」がキーワード。入門用参考書として最適。

 書簡を除くドスト氏の文章を全部読み、感想を書いた。自分の読みはどれくらいのものだったのか。ドスト氏自身の文章を読んでいるときには一切手を触れてこなかった他人の評論を、答え合わせみたいな気持ちで読んでみる。
 ドストエフスキー翻訳家による解説書。8つのキーワードでドスト氏の生涯と小説のテーマを説明する。あわせて当時のロシアの状況を解説。1981年初出。
 作品リストやサマリーはないので、読者はどこかで簡単な解説を読んでいるか、いくつかの作品を読んでいるかしておかねばならない。初心者向けだが、主要作品を収録している文庫解説を読んでおいた方がよさそう(いまならネットで検索してでてきた解説を読めばよい)。

ペテルブルク ・・・ ドスト氏は1837年にペテルブルクにやってきて、シベリア流刑時代の9年を除き、終生その町に暮らした。ペテルブルクはヨーロッパとつながる人工都市。でもドスト氏は中年になってからヨーロッパ文明を批判するようになった。当時の皇帝であるピョートルが進める近代化がインテリと民衆を分離したと考える。ドスト氏にとって真の自由は、自由意志で決断し強制されることなしに万人のために自己のすべてを犠牲にすること。それが可能なのはロシアの民衆のみである。
(ドスト氏が考える「真の自由」は、ベートーヴェンが理想にする英雄像と一致する。笠原潔「西洋音楽の諸問題」放送大学教材。19世紀の時代思潮なのでしょう。あと、荒井献「ユダとは誰か」講談社学術文庫をみると、「塔を建てる」は福音書新約聖書外伝などに出てくる表現であるらしい。そうするとイワン・カラマーゾフの問いも、分配や体制などの政治の問題だけではなく、宗教的な意味ももっていそう。)

革命 ・・・ ドスト氏と革命の接点は2回。最初は1846年に出会ったペトラシェフスキー。このフーリエ、サン・シモン主義者に影響されたが、時の皇帝ニコライ1世は革命思想を弾圧したので、1849年4月のドスト氏を含む一党を逮捕する。1848年のパリ革命の状況を受けてのこと。1856年の農奴解放令は地主に有利で農民に不利だったので、農民反乱が頻発し、学生運動も盛んになった。2回目は1872年のネチャーエフ事件。「悪霊」の題材になった。ドスト氏は革命思想を、「罪と罰」のラスコーリニコフの超人論から、「悪霊」のシガリョフ理論と進め、「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」へと発展させていった。
(この国のドスト氏解説者はここに書いたくらいのことすら省くのだよなあ。ペトラシェフスキー事件とパリ革命の関係なんて誰も言ってくれない。農奴解放令のインパクトもこれでようやく知れた。俺がぼんくらなんだけど、解説者も手抜きしすぎ。後半の革命論は俺の読みと全然違うのでサマリーはなし。)
(監獄の4年間で「ドストエフスキーは新しいかたちに生まれ変わる(P41)」。ここ重要。「踏み越え」と「新しいかたちに生まれ変わる」はドスト氏後半のテーマ。)

シベリヤ ・・・ 19世紀ロシアでは、国事犯とある特例(伝染病に関する)だけが死刑で、無期懲役が最高刑。その次は流刑。流刑には流刑懲役と流刑移民がある。懲役を終えた者は流刑移民になって数年を過ごし、最後に自由農民になるがシベリアから出られない。ドスト氏は流刑移民時代に運動してロシアに戻ることができた。流刑囚とつきあわず、聖書を読む。貴族なので労役は軽かったが、民衆の流刑囚は貴族を嫌悪する一方、民衆のやさしさを持っている。
(この国のドスト氏解説者はここに書いたくらいのことすら省くのだよなあ。ドスト氏の流刑体験はこれでようやくわかった気がする。流刑時代の体験は「死の家の記録」「罪と罰(エピローグ)」に反映している。)

ロシア正教 ・・・ ロシア正教はローマカソリックとは古代~中世に分かれた。教義の違いは下記参照。
高橋保行「ギリシャ正教」(講談社学術文庫)
ロシアでは生活と宗教は一体。年間200日もの精進を守り、儀式を忠実に行う。神―神人イエス―信者による教会に融合されている。そこからメシアニズムが生まれることがある。17世紀に典礼改革が行荒れたが、厳格な教義を守る派が教会分裂(ラスコーフ)を起こし分離派を作った。ドスト氏は熱烈なロシア正教徒。彼からすると、カソリックは「権力による人類の自由亡き統一(「大審問官」)」であり、プロテスタントは統一亡き自由。どちらもダメ。ドスト氏によると、宗教を最もよく知っているのは民衆(ナロード)であり、皇帝はほんとうの民衆を深く理解している「地上の神」。世界はツァーリと民衆(ナロード)に融合されなければならない。しかし1860年代はロシアの革命運動の高揚期であるが、インテリ・大学生はロシアの民衆を土壌からもぎ離し、ローマカソリックに等しい社会主義を宣伝する傲慢な存在。なのでロシアが率先して地上に全民衆的・全宇宙的教会を実現しなければならない。というドスト氏の理想は1918年のロシア革命で遠い未来のものにしてしまったと1981年に著者は記す。
(この国のドスト氏解説者はここに書いたくらいのことすら省くのだよなあ。ドスト氏は、ローマは岩(ペテロ)の上に教会を立てたと言っている。そうすると、下の「地下室の手記」に出てくる水晶塔やイワンの問いにでてくる子どもの無償の涙のうえに礎を築いた建物は、19世紀ヨーロッパ資本主義や自由主義のメタファーだけではなく、ローマカソリック教会でもある。これらの問いかけを社会のリソース分配や政治体制の問題にするのは、ドスト氏の意図を誤ってみていることになりそう。

「さあ、答えてみろ。いいか、かりにおまえが、自分の手で人間の運命という建物を建てるとする。最終的に人々を幸せにし、ついには平和と平安を与えるのが目的だ。ところがそのためには、まだほんのちっぽけな子を何がなんでも、そう、あの、小さなこぶしで自分の胸を叩いていた女の子でもいい、その子を苦しめなければならない。そして、その子の無償の涙のうえにこの建物の礎を築くことになるとする。で、おまえはそうした条件のもとで、その建物の建築家になることに同意するのか、言ってみろ、うそはつくな!(カラマーゾフの兄弟 2」光文社古典文庫P248」

というのは、この問いかけのあとに「大審問官」がでてくるのであり、同意しないゾシマ長老が罪ある人を救えなかった話が続くから。

 

 著者は解説に徹していて、個性的な読みはできるだけしないようにしている。ドスト氏をいくつか読んでいたり、文庫の解説を読んでいれば、そこに書いてあることから逸脱していないことがわかる。作品分析をすることはないので、複数の作品を横断して、キーワードにしたドスト氏の特長を浮かび上がらせる。とても親切。
 作家ではなく、研究者という立場がそうしているのだろう。
 ところによっては、この国の解説者や批評家が詳しくかかないことをしっかり抑えている。記述のバランスも良い。こういう参考書を最初に読めばよかった。21世紀には絶版になっているので、入手困難なのが残念。
(21世紀の解説書・入門書はここまでこなれていてバランスがよいものはない。あいにく。)

 

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2024/09/02 原卓也「ドストエフスキー」(講談社現代新書)-2 「恋愛」「癲癇」「賭博」「子供たち」がキーワード。入門用参考書として最適。 1981年に続く