odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 下」(岩波文庫)第5部4 ソーニャはラスコーリニコフにどうすればいいかを伝える

 ソーニャとの二回目の対話。「罪と罰」全体の白眉。いっしょうけんめい読もう。ラスコーリニコフに対して距離を縮め、身体的接触を辞さないまでに彼を理解しようとするソーニャの身体の動きにも注目。

4.ルージンが逃げ出した後、ソーニャもいたたまれなくなって部屋に帰ってしまった。ラスコーリニコフは彼女を追って部屋に行く(前の章が多人数がいるのに、この章はラスコーリニコフとソーニャの二人だけ。舞台の著しい対比)。リザヴェータの犯行を自白することを考えると、無力感と恐怖を感じる。ふたりだけになる。

ラスコーリニコフ「君にすべてが委ねられたら、ルージンとカチェリーナのどちらを殺すか」
ソーニャ「それは意味のない質問」

ラスコーリニコフはいわゆるトロッコ問題を持ち掛けて、他人の生命を握ったときの判断・決意を聞こうとした。トロッコ問題では、どちらかを選ぶことは、なぜそちらの命を優先したのかと常に指弾・批判されるのだ。ソーニャの答えは「トロッコ問題」が無効であることをしめした。ソーニャならどちらも殺さない道を選ぶに決まっている。) 
 それを聞いてラスコーリニコフは憎悪を感じ、続いて「あの瞬間」、アリョーナらの頭に斧を振り落とすあの瞬間(ソーニャの顔にリザヴェータの顔を二重写しに見る)を思いだす。今度は自白しなければならない。

ラスコーリニコフ「赦しを請うような感じ。くだらないこと」
ソーニャ「あなたは苦しんでいる」(ここでソーニャも人称を変える)
ラスコーリニコフ「リザヴェータを殺した人を知っている」(続いて、「あの瞬間」を語る)「よく見てごらん」

 ラスコーリニコフはソーニャの顔にリザヴェータの顔を見る。ソーニャはとっさの間に見てとった。
(この数ページのなんと緊張していること。犯罪の自白なのに、崇高な感じさえする)
 ソーニャは部屋の中ほどまで歩き、彼のすぐ横に肩と肩を触れあわさんばかりにして坐る。いきなり彼の足元にひざまずいた。絶望のように口走ると、彼の首に飛びついて、彼をだきかかえ、両手でかたく、かたく抱きしめた。ソーニャは「罪人」にキスする。
(このソーニャの一連の動作。他人と距離をとってばかりの少女が自分から他人の距離の中に入っていく。ソーニャは「仕事」では他人の距離に入らざるを得ないが、それは「苦行」なのだ、掟に反する行為なのだ。苦行でなく他人に近づき、人殺しのラスコーリニコフにキスするのは生半可な気持ちではできない。前の章でドゥーニャを助けるラスコーリニコフを見て、「自分の守り手」だという確信があったとしても。この瞬間に彼女は変貌する。ラスコーリニコフのいうことを聞いてばかりだった少女が、ラスコーリニコフに言い聞かせるようになる。ドストエフスキーの繰り返しの多いくどい文章が雄弁に伝える。)
(もちろん、ソーニャのふるまいを福音書の「罪の女」にだぶらせてみることが可能。イエスの前に跪き、香油で足を洗い自分の髪で汚れをぬぐう「罪の女」のふるまいを、周囲にいた男弟子たちは批難したが、イエスは彼女を賞賛した。とても良く似た行動をするソーニャは「呪われたもの」であり、かつ「罪の女」である。)

ラスコーリニコフ「じゃあ君はぼくを見捨てないんだね」
ソーニャ「あなたについていく」

ラスコーリニコフは極貧のマルメラードフ一家に大金を渡し、ソーニャを窃盗犯に仕立て上げようとしたルージンの計略を暴露し撃退した。それに加えて個人のプライヴェートを打ち明けた。ほとんどあらゆる男から暴力と侮辱しか浴びていないソーニャにとってははじめて「優しさ」を示した男である。数日間のこれらの体験は「あなたについていく」の決断に導くのであるか。)
 ソーニャは「あれ」「醜悪な計画」の説明を聞こうとする。とくに動機や理由。でもラスコーリニコフにはうまく説明できない。

ラスコーリニコフ「昨日いっしょに行こうときみを誘ったのは、きみだけがぼくに残されたただひとつのものだから」「見棄ててもらいたくない一心だったから」

(「地下室」の思考では他人は目的にはならず、手段でしかない。しかし路上にでて他者とであい、話をきくと他者を手段にすることはできない(ルージンが失敗したように)。他者のために活動することに意義を持つ人とであって、ラスコーリニコフにとっての他者は目的になる。でも「おまえ」「あんた」のような距離をとった二人称ではなく、「あなた」「汝」という尊敬を込めた二人称になるのがその証拠。この時点ではソーニャただ一人だが。)

ラスコーリニコフ「ぼくはナポレオンになりたかったから、殺した。母と妹が窮乏になるのが耐えがたいので、婆さんの金で当座の生活費を得たかった」「ぼくはしらみを殺しただけ」

(これが屁理屈なのは、「あれ」「醜悪な計画」を実行する前の半年間、地下室にこもって独り言をいって何もしなかった自分の行為を棚にあげているから。ラズミーヒンに頼んで翻訳や創作の仕事をするとかの労働をする選択肢を取らなかった。このあと同内容の自己批判。それもでまかせなのは自覚している。ラスコーリニコフはずっと自分で自分をだましている。)

ラスコーリニコフ「他の連中は馬鹿で、利口になろうとしない。なら頭と精神が強固なものが権力を取ればいい。あえて断行しさえすれば、思い切ってやりたかった」

(つきつめると、ラスコーリニコフの言い分は「他人は馬鹿だ、俺は頭がいい、だから権力をもっていい」となる。)
ソーニャ「あなたは神さまから離れた、神さまがあなたをこらしめて、悪魔をお渡しになった」「神の冒涜者です」
(外から入り込んだ悪魔が「あれ」「醜悪な計画」をたてて「踏み越え」をやらせた、という説明。この主題はのちの「悪霊」で別に深められる。ラスコーリニコフも自分のなかに入り込んだ「悪魔」を自覚していたようだ。でも、犯罪の原因を「外部」のせいにするのは、自由主義や民主主義ではない。カントにも反しているのではないか。)
 ということはラスコーリニコフも自覚していた。

「ぼくには権力を持つ資格はない。人間がしらみであるのは、そんなことが頭に浮かばず疑問もなしに進む人だけ(それがナポレオンなのだろうし、「死の家の記録」のほとんどの囚人なのだろう)」「ぼくはおしゃべりの苦しみに耐えぬき、その苦しみから抜け出たくなった。ぼくはただ殺した、自分のために殺した」「自分はしらみなのか、人間なのかを知りたかった」「ぼくが殺したのは自分自身で、婆さんは悪魔が殺した」「あのとき婆さんのところに行ったのはただ試してみるだけだった」

(やっぱり自己弁護だし、韜晦だし、「他」への責任転嫁にしか聞こえない。)

ラスコーリニコフ「これからどうすればいいんだ、教えてくれ」
ソーニャ「おたちなさい。すぐにいって十字路に立つんです。おじぎをしてあなたが汚した大地に接吻しなさい。そして『私は人を殺しました』と言うんです」「苦しみを受け、苦しみによって自分を贖う、それが必要」

(この贖罪はとてもロシア的。中世ヨーロッパのカルト的。通常では考えられない苦行や汚辱を要求している。でも、娼婦としてのソーニャからすると、労働の日々はつねに自分の『罪』や苦しみを周囲にさらけ出し、苦しみによって自分を贖うことなのではないか。ソーニャからすると、自分の日常をラスコーリニコフに体験させようとする提案なのかもしれない。カチェリーナ、プリヘーリヤ、ドゥーニャらをみれば当時のロシアの女性はソーニャの提案を毎日実行するようなものだった。)

ラスコーリニコフ「ぼくはあの連中のところには行かないよ」
ソーニャ「じゃ、これからどうやって生きていかれるものかしら?」
ラスコーリニコフ「もしかすると、ぼくはまだ人間でしらみではないのかもしれない。自分を責めるのをいそぎすぎたらしい...ぼくはまだたたかうぞ」不遜な薄笑いが彼の口元に浮かんだ。

(第4章終りにミコライの自白があるので、警察の捜査が及ばない可能性をみている。ポルフィーリィとの思想闘争もまだ決着がついていない。犯罪者の心理を知り尽くした男を手玉に取れるかもしれない。)

ラスコーリニコフ「ぼくは監獄にいれらるかもしれない。その時は面会に来てくれるかい?」

 行くと答えるソーニャに愛されていることが苦しく、つらくなってくる。

ソーニャ「あなたは十字架をかけている?」と尋ね、糸杉の十字架をラスコーリニコフにあげる。それはリザヴェータと一緒に作ったもの。ラスコーリニコフは受け取りかけて「いまはダメだ、後の方がいい」と断る。ソーニャも「その方がいい」と夢中で相槌を打った。「苦しみに行くとき、その時にかけて行くのよ」

ラスコーリニコフは踏み越えた後の苦しみを自分で克服できない。でも、同じように「踏み越え」ているソーニャはリザヴェータらといっしょに苦しみを克服する方法をもっている。リザヴェータといっしょに十字架を作ったり、聖書を読んだりすること。それがあるので、ソーニャは自分をしらみと思い込んだりしないし、他人を支配し権力を得ようとする願望を持つことがない。なにより悪魔に誘惑されない。「地下室」の思考は人間のダメなところをとことんまで追求できるが、そこから抜け出す方法を持っていない。「悪魔」の誘惑に抵抗できない。それは人類の幸福を実現する希望にはならないのではないか。)
(俺のような東洋の非キリスト教徒からすると、ソーニャの方法も受け入れがたいのであって、救いにはなりそうにない。ソーニャの進言を実行しようとすると、他人の目が気になってできない。できなかったことを悔み、それがおしゃべりになる。むしろラスコーリニコフよりも精神のニヒリズムは深いのではないか。まあ「踏み越え」ても、天皇制が「すべてよし」と宣告すれば、罰なしに罪は水に流れて行ってしまうのだし。親鸞の「歎異抄」では自分の罪と悪を自覚すれば、「善人なおもて往生す、まして悪人においておや」と相対化して罪と罰の問題をうやむやにしてしまいそう。なお、「歎異抄」にでてくる悪人をこのように解釈するのは間違いだとおれは思っている。)
(なお、第4部第4章と同様に、この会話をスヴィドリガイロフは盗み聞きしていた。)

 

 この章で見えてくること。ラスコーリニコフは観念に取りつかれている人。「地下室」に半年こもり、論文まで書いた仮説のとりこになった。その観念を通じて世間や社会をみてみると、「踏み越え」て「あれ」「醜悪な計画」をすることが許されていると思い込む。でも、踏み越えた先のことをちっとも考えていなかったので、世間(家族や友人、知り合い、警察など)や社会から批判や障害を受けてしまい、狼狽する。通常、観念が現実にあわなくて挫折すれば、観念を修正して現実に適合するものだけれど、ラスコーリニコフは現実がおかしいのだ、あるいは自分が弱いのだと考えて、観念に固執する。そして目的をずらして、観念を現実に当てはめようとする。
 自己正当化をはかるのだけれど、彼一人ではおしゃべりばかりで何もしない。踏み越えの後、かれはさまざまな人のところを歩き回っても、彼らとおしゃべりするだけ。何かをする、共同で何かをする、自分のために何かを作ることをしない。上のように観念に固執しようとすると、一人だけでは何もできない。そこでかれは他人に依存する。母と妹のことをラズミーヒンに委託する。そのあとは、「家族の縁を切ってしまった」とうそぶく。犯行の恐怖や不安をソーニャになげかける。彼女の返事をまち、彼女の助言のとおりにしようとする。なにもしないだけでなく、他人の助けがなければ何もできない。
 ソーニャの助言は、たぶん「私」のような差別の被害者になれということ。ラスコーリニコフは警察のような権力に反感を持つが抵抗しない。でもアリョーナのような老婆に対して暴力をふるえる。貧乏で絶望している女性に憐みと見下しで小銭を与えることができる。それは男性であること、学生であったことという強味をもっているから。その強みを捨てて、社会の弱者として生きなさいというのがソーニャの諭し。そのために大地への接吻、自己批判と告白を勧めるのだ。

 

フョードル・ドストエフスキー罪と罰
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2025/01/06 フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 下」(岩波文庫)第5部5 辱められ「虐げられた人々」であるカチェリーナが乗りつぶされる 1866年に続く