2024/12/24 フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 下」(岩波文庫)第6部5.6 スヴィドリガイロフ、ドゥーニャに拒絶される 1866年の続き
「家族の縁を切ってきた」しラズミーヒンにもお別れを言ったし、ルージンは故郷にかえってしまい、家長が死んだマルメラードフ家はペテルブルクから出ていき、ポルフィーリィが猶予を与え、スヴィドリガイロフが自死してラスコーリニコフの前から姿を消したとなると、あとはソーニャだけがラスコーリニコフのもとにとどまる。


7.一晩雨の中を歩いて汚い格好になったまま、ラスコーリニコフは旅館にいく。そこには母しかいない。母が口説くのを止めて「愛している」。母「遠くに行くのかい」。ラスコーリニコフは母の足元に身を投げ足に口をつけた。ナスターシャが見送るように家の前にいる。自分の部屋にもどると、ドゥーニャが舞っている。すでに「あれ」を知っているのがわかる。ラスコーリニコフ「身を投げようかとも思った」「金貸し婆さんを殺したことには罪はない。資金をえて大きな利益をあげてすべてが帳消しにされるはずだった。でも最初の一歩でさえ持ちこたえられなかった。卑劣で無能な自分を許せない」「神を信じていない」「勇気ある誠実な人間になる」。かつての許嫁の写真をドゥーニャに渡す。その娘には「あれ」「醜悪な計画」を話し合ったが、ついに同意しなかった。ラスコーリニコフは外に出る。
(雨に濡れて汚れた格好をしているのは自分に無関心で価値を認めていないありさまの象徴。ここで解るのはラスコーリニコフは自分の理論が誤りであることを認めていないし、婆さんを殺したことを罪と思っていないこと。「踏み越え」の第一歩を持ちこたえられず、彼が無能と罵っていたものたちにすら劣っていることを自覚したのだった。いわゆる犯罪に対する改心は訪れていない。なので、このあと20年の徒刑で苦痛と愚劣さに押しつぶされることのほうが気がかりなのだ。この感情は「死の家の記録」で笞刑を恐れる囚人のようだ。)
(わずかな資産を得て大きな利益をあげると、すべてが帳消しになると考えるのは、彼の強い功利主義のため。最大多数の最大幸福が達成できれば、最大多数に含まれないマイノリティは不幸で苦痛があっても致し方ないという考えだ。なので、「罪と罰」にはイワンの問いは現れない。)
(母の足元にひざまつき足に口をつけるのはイエスのイメージの投影。彼はソーニャにもそうしているので、ラスコーリニコフはキリストなのである/キリストになろうとしているというメッセージになる。)
8.ソーニャの部屋に行くと彼女は待っていた。ラスコーリニコフ「十字架をもらいに来た」といって、ソーニャに糸杉の十字架をかけてもらう。
(この十字架は、第1部第6章でラスコーリニコフが婆さんの胸から取り出し、そのまま放置した十字架に対応。棄てた十字架を再び拾い上げたのだ。婆さんの十字架もあんがいリザヴェータのものかもしれない。あとラスコーリニコフは「民衆の十字架」というので、ロシア正教会ではない十字架を意味しているのかも。「神を信じていない」といっているので、正教会のものはつけたがらないだろう。)
ソーニャはお祈りをなさいと命じる。いっしょに行こうかというのを拒否して、ラスコーリニコフはひとりで路上に出る。
(そこで「踏みとどまって、やり直せないか」と自問。「踏み越え」の反対である「踏みとどまり」。ソーニャの姿を見てその考えを捨てる。そのあとは自分自身のことを独り言。「俺は堕落した」「俺は卑劣漢」「自分に見栄を張っている」「自分を恥じることがあるか」。地下室にいると問題は全部自分のことだけ。自意識過剰はいつまでもラスコーリニコフから抜けない。)
警察署に近づいて、ソーニャの言葉を思い出す。前日の雨と馬車や足跡でぐちゃぐちゃになった十字路にひざまづいてなんども口をつける。それを見た民衆が騒ぎ、嘲笑する。
「ありゃ、エルサレムへ行くのさね、みなの衆、子どもや故郷にお別れをして、全世界にお辞儀をして、首都の聖ペテルブルグとその石道に接吻しているのさね」ほろ酔い機嫌の町人が、こうつけ加えた。/「まだ若いのに!」もうひとりが口をはさんだ。(P360)」
(このエルサレムも最後の審判のあとに入れる「新しいエルサレム」ではない。第8章の道行は、イエスの磔刑前に重ねたイメージ。イエスでも十字架を背負う姿が人々に嘲笑された。ラスコーリニコフもおなじようにあざけりを受け嗤われる。それを耐えることが苦しみであり、「勇気を持ち誠実な人間になる」ことなのだろう。でも神はその先にはいない。)
(雨に打たれてみすぼらしい格好になっているうえに、大地への接吻で顔も服も汚れているはずなのに、ラスコーリニコフは気にしない。民衆の嘲りもののしりも気にならない。これまでは他人の声には敏感に反応していたのに。)
(自首することは、シベリアの監獄に送られ、髪を半分剃られ、囚人服を着せられ、足枷をつけられることだ。それに加えて終生消えることのない烙印を額と頬に押される。それをさらして生きることは、「私は人殺しです」と大通りで叫ぶことに極めて近い。人目を惹き、後ろ指をさされ、悪口雑言を浴びることを甘受することだ。そのような囚人になることをラスコーリニコフは選択する。警察署に入る前に見る「幻(P361)」は囚人になり烙印を押され「私は人殺しです」と無言で叫んでいる未来の姿だ。他人に嘲られ虐げられ辱められる苦痛を受け入れたものである自分の姿だ。ラスコーリニコフは「それがそうあるはずだということをすでに感じていた」。通常の解釈では「幻」はソーニャやキリストとされるが、この自尊心のつよい自意識過剰な男は他人を幻に見ることはないと思う。「踏み越え」を耐えきれず主義を殺し敗北し続けた男がみるのは自分自身だけでしょう。別の解釈ができれば、ラスコーリニコフのかわりに殺人犯だと自供したミコライかも。この奇妙な男も進んで苦痛を引き受ける人だった。自分の姿にミコライを重ね合わせた、というのも魅力的。)
(ラスコーリニコフが見る「幻」が恥辱の印を身にまとった未来の自分自身であると考えると、そのあとの
「五十歩ほどはなれたところにソーニャの姿が見えた。彼女は、広場にたっている木造のバラック建てのかげに、彼から見られぬよう、身をかくしていた。してみれば彼女は、彼の悲しみの行路にずっと付きそって来たわけだ! ラスコーリニコフはこの瞬間、ソーニャがもう永遠に彼をはなれないであろうこと、たとえ運命がどうなろうと、彼女は地の果てまでも彼につき従ってくるであろうことを直感し、悟った。彼は、胸をかきむしられる思いだった。だが、もう運命の場所までたどりついていた ……。(P361)」
というラスコーリニコフの確信が生まれる理由がはっきりする。神を「踏み越え」ることに失敗し、卑劣漢でしらみだと自認するような価値のない自分にもけっして離れない他人がいることで、孤独ではない・一人きりにならないという安心になったのだ。とてもよいシーンと思うが、ラスコーリニコフの他者依存は強いとも思うのだ。一人では恥辱や苦痛に耐えられない。一人で全部引き受けるソーニャやドゥーニャ、カチェリーナらの女性と比べるとラスコーリニコフは弱い。それはマルメラードフでもルージンでもスヴィドリガイロフでも同様。)
警察署には「火薬中尉」がいる。ポルフィーリィには会いたくなかったので好都合。火薬中尉はラスコーリニコフに全く嫌疑をもっていない。火薬中尉「あなたはニヒリストか?」。ラスコーリニコフは否定する。ツルゲーネフ「父と子」は1862年発表。ニヒリストが自殺している、昨日スヴィドリガイロフが自殺しているのが見つかった。話し出せずにそとにでるが、署のまえにはソーニャがいる。
(火薬中尉の前でいうことができず、いったん警察署を退去した後、ソーニャの「絶望のしぐさで両手を打ち合わせた」のを見た後、「途方に暮れたような微笑」「苦笑」を浮かべる。すでに囚人になることを覚悟し、烙印を押された幻をみて、なお「踏み越え」られない自分の弱さに対する自嘲なのである。ここで強い自尊心や自意識を越える自首への勇気が生まれる。)
彼女をみてラスコーリニコフはふたたび警察署に入っていく・・・
フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」
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2024/12/20 フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 下」(岩波文庫)エピローグ 旋毛虫の夢と新しい人間の誕生 1866年に続く