odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 下」(岩波文庫)エピローグ  旋毛虫の夢と新しい人間の誕生

 第1部から第6部までは13日間の物語(訳者による)。エピローグはその一年半後からはじまる。

1.ラスコーリニコフは裁判で正確に証言し、自己弁護をしなかった。そのため一時的錯乱とみなされ、第2級徒刑囚として8年の実刑を受けた。ソーニャはスヴィドリガイロフの金でシベリアに行く準備をし、ラズミーヒンとドゥーニャは結婚して5年後にシベリアに行くと決心している。母プリヘーリヤは突然無関心なふうになり亡くなってしまった。
(この小説に登場したほとんどがペテルブルクから去ってしまった。「船室」に住んでいたラスコーリニコフが船頭になって、地獄からでていったみたいに。唯一残るのはポルフィーリィ。「終ってしまった人間」と自認している合理主義の権化はペテルブルクの地獄からでていくことができない。「地下室の手記」の語り手も
「わたしは、ペテルブルグの気候が健康に好くないし、わたし風情の貧弱な資力でペテルブルグ住いをするのは非常に骨が折れると、人から注意を受けるのだが、そんなことは自分で百も承知している。それをもっともらしく忠告する、経験と知恵の塊りみたいな連中よりも、ずっとよく心得ている。が、それでも、わたしはペテルブルグに踏みとどまっているのだ。ペテルブルグを出て行きはしない!(第1部1)米川正夫
とペテルブルグを出て行かない。)
 ラスコーリニコフはシベリアに送られたが、熱心に作業に励むわけでもなく、食事に無関心で、毛布一枚で過ごしていた。一年半後に、ラスコーリニコフが病気にかかったという知らせが届く。
ラスコーリニコフは自分の身体への無関心がさらに昂進し、この時期はセルフネグレクトになっている。)

 

2.ラスコーリニコフは病床中で考える。監獄に収監されていまいましいのは誇りが傷つけられたこと、無意味さに屈服していること。自分のした犯罪は持ちこたえられなかったことと自首したことだ。弱さと自分のくだらなさのために断ち切ることもできず、踏み越える力もない本能の鈍い痛みを感じていた。彼はしゃべらず社交もしなかったので、囚人から嫌われていた。不信心者とみなされリンチにあいかけることもあった。
(徒刑は肉体の苦痛をラスコーリニコフにもたらしたが、人殺しの反省は生まれていない。囚人のなかでは、たいした犯罪ではないとさえ思われている。彼にとっての罪は犯罪後に弱さを露呈したことにある。自首して苦痛を受け入れることを選んだが、囚人であることが日常になると、あの日の精神の輝きは失われる。屈辱や侮辱を快楽と感じることができない。彼の強い自尊心や自意識は集団の中で孤立することで、屈辱や侮辱を遮断するルーティンを作り出したのだ。ルーティンになった精神は囚人から疎まれることで、再び「地下室」の思想を反芻する。)
 ラスコーリニコフは,ある旋毛虫がヨーロッパ中に感染し、取り憑かれた人々が発狂する夢を見た。分裂と戦争が起こり、新しい人々の出現が期待されたが誰もでなかった。
(旋毛虫の夢はヨハネ黙示録のイメージであるとのこと。何かが人間に取り憑き、人類的な分裂と戦争が怒るのはのちの「おかしな人間の夢」でも書かれた。夢の中の「新しい人間の出現」は、最後の「ひとりの人間が徐々に更生する物語・・・」に対応している。ラスコーリニコフの理論からすれば、「踏み越え」を乗り越える新しい人間の出現は待ち遠しいことだし、彼自身がそうなることを願望している。)
スーザン・ソンタグ「隠喩としての病」みすず書房と丹治愛「ドラキュラ・シンドローム講談社学術文庫によると、旋毛虫の夢の夢にはコレラパンデミックの反映であるとのこと。インドの地方病だったコレラは19世紀末にパンデミックを複数回起こし、多数の死者を出した。インドから中国そしてロシアに感染した。もうひとつのルートはインドからイスラム世界そして地中海経由。高い致死率、早い感染速度、激烈な症状で恐れられた。他の土地から来る死の病に植民されるという外国恐怖を生むきっかけになった。文明化した地域が原始的な力によって植民地化されるという恐怖をラスコーリニコフの夢から読み取れる。ドスト氏の「作家の日記」にある汎スラブ主義と外国人嫌悪は裏返された植民地化でもあるだろう。)
 ソーニャが風邪をひいたという噂が聞こえ、数日後ソーニャが快癒した姿で作業場に現れた。ソーニャはラスコーリニコフの横に並んで座り、手をにぎる。不意にラスコーリニコフはソーニャの前に膝まつき両ひざを抱えた。彼女を愛しているという確信ができる。そのとたんに、あと7年の徒刑は一瞬のように感じた。「ふたりは口をきこうとしたができなかった。涙がふたりの目に浮かんでいた(P401)」。ラスコーリニコフはソーニャが持ってきた聖書を初めて開いた。「思弁のかわりに生活が登場した(P402)」。このあと「ひとりの人間が徐々に更生する物語、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語」がはじまっている・・・
(弱さの克服は、ソーニャを愛していることを自覚した時に始まる。彼は他人に愛されていることを知っているが、それに応えることはなかった。むしろ愛されていることをじゃまに思い、離れるようにした。それが愛することを自覚して、積極的に人の中に入って行こうとする。この変化は囚人たちに伝わり、それまでの関係が変わる。)
(神を信じていなかったラスコーリニコフが信仰を持てるようになった、と多くは読んでいるようだが、おれはそう見えないのだよな。「生きろ」という神の命令以外は聞こうとしなかった(だから彼は自殺できない)。神との交通を断っていた。それが聖書を読めるようになったのは、ソーニャが隣にいて一緒に読んだから。ラスコーリニコフは直接神と交信できない/しないが、ソーニャを間に挟むことによって神を見たり聞いたりできるようになる。)
(ソーニャなしでは神との交信はできないのではないか。ラスコーリニコフの他者依存は以前からあり、愛することができるようになってより強く他人に依存するようになったと思う。)
(でもラスコーリニコフの思想は変わりはないので、更生したら囚人たちを感化するようになるのではないか。ラスコーリニコフの思想は旋毛虫のように囚人たちのうち「踏み越え」られたものに取り憑いていくのではないか。この新しいミッションを考えると、残りの7年は「わずか」と思うようになるだろう。)

 

 ここまでソーニャ自身のことを語ってこなかった。男性であるおれが女性の性格をうんぬんするのはおこがましい、というか、ふだんでも理解していないので何か言うことができないのだ。そのうえ、彼女の様々な行為がキリスト教信仰の徳や善を男性から押し付けられているように見え、男性から見た女性の理想化にもみえるからだ。彼女の謙仰や自己犠牲なども自発的であるというより、社会や家族に押し付けられたルールによって作られたものであるようにみえるからだ。これらを21世紀の視点で批判してもいいけど、1860年代のことをのちの道徳基準を当てはめるのもおかしなことだろう。
 このようにいいわけをしておいたうえで、ソーニャによく似ているキャラがいるかと考えていたら、高橋留美子のコミック「うる星やつら」のラムだと思いついた。ラムは地球外生命(であるが人間に似た体形)であり、徳や善悪を地球人や日本人と共有していない。にもかかわらず一方的に諸星あたるという男性に惚れて、押しかけ同棲を始める。彼女は慈愛に満ちているが、あたるが踏み越えようとすると懲らしめる。彼女の行動や善悪の判断基準はよくわからないが、あたるの行動を制限しようとする。ここがソーニャに似ているところ。
 ラムが異星人であるように、ソーニャもラスコーリニコフのようなモッブやダス・マンの外にいる人。おれのように中にいる人には理解や共感がとてもむずかしい。なにかいえるようになるまでは、こうやってカッコにくくっておくことにする。
(ソーニャが男性からみた女性の理想化、神聖化と思えるのは、小説の中では彼女の労働やその経験から出てきた言葉が書かれなかったからだ。ラスコーリニコフとあっていない時に、家を留守にしているときに、ことに夜にソーニャは男を見つけ、自分の部屋か仕事の場所に連れ込んでいたのだった。それ自体が「罪」とみなされ「呪われている」と男にいわれる行為で彼女が何を考えているのか、どういう屈辱を与えられているか。ときには「地下室の手記」の語り手のようなミソジニーの男に侮辱されたり、聞きたくもない説教をきかされたりもしただろう。その屈辱をどのように忍んでいるか、耐えているか。そこは一切書かれない。書かれないことによってソーニャにかけられた「罪」や「呪い」に思いをはせなくて済むようになる。もし書かれていればソーニャ自身が体験を語っていたら、彼女の理想化や神聖化は生まれなかったのではないか。「地下室の手記」第2部のローザのように、さまざまな男から侮辱や軽蔑を受けたのではないか。もちろん世の中には「呪われた」労働をしているにもかかわらず彼女は立派だという男もいるだろうが、それもまた彼女や「呪われた」労働についている人たちを蔑視し差別するものいいなのである。)
(加えると、ソーニャは暮らしをしている様子がない。サモワールでお茶を入れたり、豆を煮たり、洗濯をしたり、水汲みをしたりしていない。ソーニャの「おそろしく天井の低い部屋」「物置」「いびつな方形」の部屋にも暮らしの道具がないように書かれている(だからラスコーリニコフは目ざとく聖書を見つけることができる)。ラスコーリニコフに食事やお茶のサービスをすることもない。母親カチェリーナがつねにこれらの仕事をしていて、ほとんど自分の時間を持てないのと好対照。ソーニャは仕事も労働もないような存在にされているのだ。そのイメージは同じく仕事も労働も内容にされ、宗教的観照に集中する聖母マリアに近しい。その姿は男性の願望に沿うもので、実際に生きている女性の暮らしや日常とはかけ離れている。こうして男性目線によってソーニャは聖性が与えられている。)

 

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2024/12/19 フョードル・ドストエフスキー「罪と罰 下」(岩波文庫)感想1 ラスコーリニコフの犯罪はヘイトクライム 1866年に続く