odd_hatchの読書ノート

エントリーは2200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。

エラリー・クイーン「ダブル・ダブル」(ハヤカワポケットミステリ)

エラリイ・クイーンの許へ匿名の手紙が届いた。中には最近のライツヴィルのゴシップを知らせる新聞の切り抜きが数枚入っていた----“町の隠者”の病死、“大富豪”の自殺、そして“町の乞食”の失踪。この三つの事件の共通点は? この手紙の主は、不敵にもクイーンに挑戦状を叩きつけたかのようであった。と、そこへ“町の乞食”の娘で森の妖精のごとき少女リーマが彼の事務所へ事件の依頼に訪れ、クイーンは懐かしの土地へ赴く----彼を待ち受けたように古い童謡に憑かれて犯行を重ねる殺人鬼に、さすがのクイーンもなす術がなかった!(ハヤカワ文庫カバー紹介文より)
ダブル・ダブル - EQペディア/エラリイ・クイーン事典

 ライツヴィルで不審死が続いている。町の偏屈者が心臓麻痺(実は大資産家)、企業経営者が自殺(実は賭博にはまって一文無し)、飲んだ暮れが失踪(彼は元大学教授)、医師が自動車事故(この職業にもかかわらず迷信を信じていた)、などなど。問題は見てくれとその人の真実(というよりは裏側、というか人が見ていなかったところ)が裏腹であるということ。このリストにあるように被害者には関係があるとは思えず、いずれも事故で片付けられていた。しかし、上記にあるように少女リーマがエラリイに事件を依頼したときから、様相が変わる。実のところ、エラリイが事件に介入しなかったら、連続殺人事件とは思われなかったように。事件はまさにエラリイの脳髄の中で起きているかのようだった。
 そうなんだ。不満なところがあるとすると、エラリイ(と読者)はそこに事件がおきていることを確信しているが(読者にとってはいや実は事故が偶然重なったのでした、という説明には納得しない)、登場人物は事件とみなさない。そのため警察組織も動かないので、普段ある科学的・組織的な捜査は行われない。解決編でも、「どのように」には一切触れない(自動車事故に見せかけたり、転落事故に見せかけたりした事件では、目撃証言を取ったり、アリバイを確認したりすることで、真犯人は浮かび上がってくるだろうに)。実証主義者にとっては、これは不十分な捜査の記録で、作者は重要な情報を読者に故意に隠していると指弾することができるだろう。
 ではどこがミステリかというと、「なぜ」にこだわり、その理由が十分合理的に推理できること。多くの登場人物が現れ、行動し会話するのだが、感情や心理をあらわにしている人はいない。このような仮面と人形の記録から彼の真実(おもに内面のことだ)を明らかにしなければならない。ここでのエラリイの推理はなぜに特化する。なぜ人はマザーグースの同様の順に殺されたのか(最初は金持ち、貧乏人、乞食に泥棒、医者に弁護士、商人にチーフ。指先と指の間を交互にさしていく遊び)、なぜ犯人はこのような互いに関係のない人を被害者にしたのか、なぜ彼は実行したのか。そういう点ではこのミステリは合理主義の世界にある。でも実証には耐えられない。読者のいる世界に似ているが関係のない世界のお話。ライツヴィルものがたぶんそういうカテゴリにはいり、「ガラスの村」「第八の日」もそうなのだろう。
 というか、こんな妄想をしてみた。この事件において、探偵の役割は事象からメッセージを見出すこと。一貫した内容のメッセージを見つけたら、それは何かの超越的で変更不可能のお告げなのだから、これから先のことはメッセージのとおりに起こるに違いない。もっと強い主張で起こることは確定されている。それが見出せないというのは探偵が事象をメッセージのとおりに読むことができないからで、探偵はメッセージに即応する事象を見出さなければならない。そのような立場では、ものや言葉はたいして重要なことではないのだ。このような立ち位置で書かれると、実証主義は後景に退いてしまうよな。後期クイーンのわからなさや物足りなさというのは、この辺りにあると思う。たとえば、「第八の日」「最後の一撃」「盤面の敵」「九尾の猫」など。この中には代作が入っているが、「クィーン」名義なので同一の傾向を持つ、と強引にこじつけておく。
 タイトルの「ダブル、ダブル」の意味はよくわからなかった。作中の説明を見ると、事件の被害者は二面性を持っていて(上記のように外見と内面が一致しない)、通常は内面は隠されている。それが犯罪のような特別な状態において、その矛盾があらわになり、葛藤を経て統合される、ということになるのかしら。このテーマはロス・マクドナルドにはふさわしいが、クイーンのものではないような。探偵エラリイは内面を持たないのだからね。それでいて観察者というには、人情に厚い(ので介入しすぎて裏切られて悔悟することになる。一連のライツヴィルもの、「顔」「緋文字」など)。あと「ボディ・ダブル」の連想で、二役とかごまかしなとかの意味を持たせているのかな。それが重ねられているので、まやかしのまやかしでもあったりして。
 あとはヒロイン、リーマの自然児振りが興味深い。世俗から離れて暮らしていた人間(特に女性)は性において奔放ですよ、という男の欲望、あるいは19世紀の禁欲主義の反動をみてもいいのではないかしら。この作は1950年だが、この数年後の映画「禁断の惑星」でもそういう若い女性が登場して、周囲の男を困らせていたなあ。