世界不況の前か後かわからない戦前のニューヨークで、以下の3つの事件が起きる。
第一の事件: 雨のなか、満員の市電で、乗客のひとりが毒殺される。凶器はコルク玉に針をいくつも刺し、先端に高濃度のニコチンを塗ったというもの。被害者を嫌う人物が複数乗り合わせていた。事件発覚が運転中だったので、そのまま車庫に入庫。その間、乗り降りした乗客と運転手はいない。
第二の事件: 第一の事件の被害者と加害者に重要な情報があるという匿名の手紙が届き、落合い場所に指定した渡河船からひとりの乗客が転落死。船と桟橋に挟まれてひどい状況。ただ足の傷から第一の事件の関係者であることがわかる。第一の事件の関係者が一人乗り合わせていた(逮捕されたが、探偵の補助で、裁判で無罪となる)。
第三の事件: 二つの事件の容疑者の無罪確定を祝うパーティの帰り道、郊外に向かう電車で容疑者が射殺される。左手の人差し指と中指を交差させた魔よけのしぐさをしていた。直前に、被害者に恨みを持つ人物が、被害者を補助用の空車に連れて行って長時間話し込んでいた。死体発見時に彼はいなくなっていた。
凡百の探偵小説では、探偵も刑事も関係者も「不可能犯罪!」と騒ぎ立てるところだが、ここではぐっと抑えた描写。サムとブルーノがきちんとした捜査をして可能性をつぶすことによって、奇妙な事態、起こりえない事態が発生しているのがわかる。わかったときに、読者もまたサムやブルーノのように打つ手なしの自縄自縛の気分に飲まれてしまう。そのときただひとりドルリィ・レーンのみが観察力と理性を働かせて、見逃してしまう自然な振る舞い、ありふれた物証に謎の解決のカギを見つける。このあたりのテクニックは万全。とりわけ第二の事件の被害者が裁判にかけられた時、無罪を立証する手掛かりがごくあっさりと、しかし重要性をもって書かれていることに驚愕。しかもそれは事件全体の解決には結びつかず、レーンと同じ注意を働かせることが必要になってくる。
パズルとしては完璧。このような読者へのフェアプレイを隅々まで働かせる書き方は、ヴァン=ダインあたりからだとおもうが、わずか数年でこの高見にまでいくとは。あと、都筑道夫センセーのいうとおり、第三の事件のダイイング・メッセージは状況の不思議さと謎解きの自然さで、最も成功している。
一方で、犯人である「マーチン・ストーブス(明かしても大丈夫)」の動機がどうにもわかりづらい。なるほど、被害者との長い確執があることはわかったが、それが20年も前にさかのぼるというのが。ドイルやガボリオみたいに冒険譚を挿入しなければならなくなった。そのために、自分はこの小説が分裂しているように思えた。モダンなフェアプレイのパズルと、19世紀ロマンスの冒険譚。この二つが同居していて、それはうまくいっていない。
※ 都筑道夫「退職刑事健在なり」(徳間文庫)の「あらなんともな」(1986)にその種の話が出てくる。
すごいのだけど、どうも瑕疵があり、居心地がよくない。そういう物語。この「ホワイ」の説明不足というのは、作者も気づいていたのではないかなあ。「Yの悲劇」はそこにこだわったようだし、ライツヴィルものだと「動機」「犯人の心理」というのが主題になってくるしね。そうみると、成功と失敗の同居した稀有な傑作だし、その後の探偵小説の可能性をさまざまにこめた問題作でもあるなあ。やはりこれは数回の読み直しが必要。1932年「奇跡の一年」の作。
あと、笠井潔「バイバイエンジェル」(角川文庫)で、カケルが現象学的推理法を開陳するが、そのとき死体が砂糖をにぎっていたとき、なぜ探偵はすぐに麻薬を連想したか云々という話をする。元ネタはドルリィ・レーン氏の手柄話で、ここに書いてあった。メモ代わりに記録。