odd_hatchの読書ノート

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アーシュラ・ル・グィン「幻影の都市」(ハヤカワ文庫)

 「長老ソブの館を取り巻く森のはずれに見知らぬ青年が現われた。自分についての記憶をすっかり失くしている。館の住人たちは猫のような不思議な目から黄色を意味するフォークと名づけ5年のあいだ庇護するが、記憶は戻らぬままだった。ゾブは彼の正体に頭を悩ませた。かつて《全世界連盟》を倒した人類の敵シングの手先か、それともシングに記憶を消された館への使者なのか? 『ロカノンの世界』『辺境の惑星』につづきSF界の女王が流麗な筆致で描く未来史シリーズ第 3弾。」


 堀田善衛によると中世までのヨーロッパは深い森に覆われていて、人びとは森をわずかに開拓した集落にすんでいた。集落と集落の間は離れていてほとんどの人は集落から出ない。ときおり旅人が訪れるくらいだった。そういう中世西洋の森の集落を思わせる「ゾフ」の館に青年が現れる。記憶をなくした彼は、自分のアイデンティティの回復とそこに存在する意味を思い出すために旅に出る。この惑星には伝承があり、かつて恒星間を行き来する宇宙的な組織があり、そこから来た人と土着の生命体は共存していた時期があった。しかし、宇宙的な組織からの通信や交通は絶え、知識や技術の伝達もできなくなり(不妊や奇形の発生などによる人口減もあった)、全体として生命体は衰亡していたのであった。伝承レベルのあいまいな情報とはいえ、青年(ゾフの館の長によってフォークとなずけられる)は西に向かい、森を出て、広範なプレーリーを抜け、山のかなたにある「エス・トック」という都市を目指す(この惑星には都市といえるような人の集まったところはほかにない)。なるほどここにおけるフォークの役割は、オッデッセイアと同じである。前半は、偏屈な集落や好戦的な部族と交通しながらの冒険譚。途中、単座の滑空機をもらって航空のたびもするが、ほとんどは徒歩。奴隷をもつ部族でであった「放浪者」の女と一緒に旅をすることになり、ますます彼の意図は明確になる。
 ようやく「エス・トック」の都に到着したときから、当初のフォークのもくろみはずれ始める。旅の道連れの女(エストクル)は、フォークを「エス・トック」の都に連れ戻すために派遣されたのだった。そして、「エス・トック」の住民は自分が「シンク」であることを明らかに、伝承には誤りがあることを伝える。ここで読者を混乱させることになるのは、「歴史」に関する情報がさまざまな立場(惑星の先住知的生命体やシンク、あるいはフォークとともに惑星探査にきた調査隊員のもう一人の生存者など)から語られ、どれが真実のものであるのかはっきりしないから。オッデュセイアは(たぶん)真実の声をいろいろな場所で聞くことができ、その伝えのとおりに旅することによって故郷に帰還できた。しかし、フォークは自分が異星人であることからなのか、懐疑主義を旨とする数学者であるためなのか、容易に彼らの言葉を信じることはしない。読者もフォークと同様に懐疑することになる。
 フォークは自分の生まれた惑星(それは「辺境の惑星」の舞台になったところでもある)に戻ることになるが、その際にこの惑星で得た知識や人格を失わなければならないという選択を迫られる。通常、このような記憶喪失が起きたとき、ノンフィクションの世界では二つの人格は一つに統合されるのであるが、ここではそうはならない。何かを得るために何かを喪失するというのは読者の人生にもあることだが、この問いかけの切実さというのは比類のないものだ。
 フォークは機知によって解決し、旅を完了することになるのだが、それが最適な選択、回答であるのかは判然としない。読後に重苦しさが残るのは、誰の話が真実であるのか判然としないためで、作者もそれを明らかにすることなく、物語を閉じる。(後から思うと、《全世界連盟》と宿敵シンクの間の共和というか交通の可能性がシンクの側から提案されたけど、《全世界連盟》の側にたつフォークにはそれを実現化することをしなかった。下っ端だとか、味方がいないとかいろいろな条件があったからフォークの選択も理解できるけど。その交通の可能性はフォーク帰還後の《全世界連盟》に託されていて、読者のいるところは《全世界連盟》の統治下にいる市民とか人民であるので、シンクにどう対応するかは読者の決断に任されているのだ。その決断の困難さが読後の重苦しさになるのだろう。1968年作なので「シンク」を共産主義国家とみてもいいし、いまならイスラム原理主義者とみてもよい)。
 第三作目で、ファンタジーや中世文学の設定を借りているとはいえ、その内容は深く、重く、息苦しい。どの章からもここに指摘できなかった問題をいくつも見出すことができ、それは読者の現実世界においても重要な問いになるだろう。たった一年で「ロカノンの世界」からどれほど遠くに来たのか。すばらしい。