odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

宇井純「公害列島 70年代」(勁草書房)

 1970年から1972年にかけて書かれた雑誌論文、コラムなどを収録。初出雑誌には「蛍雪時代」「朝日ジャーナル」「思想の科学」「現代の眼」などが並ぶ。最初のを除き、著者のような在野の思想家ないし運動家に文章を書かせ発表するというメディアはなくなったのだなあ、の感。個人の意見発表はwebでできるようになったとはいえ、網羅的に新しい書き手を発見するのはwebでは面倒なのでね。こういうメディアは便利だった。

第一部 反大学における学問
Ⅰ 反大学における学問を求めて ・・・ 水俣病新潟水俣病の闘争に参加する中で、田中正造足尾銅山公害闘争を知った。明治末期においてすでに公害の出す側の理論、やり口、運動つぶしが出揃っていたことを知った。絶望的なのは著者の所属する東京大学の教授その他が資本・権力の側にたち(一見中立を装いながら)、資本や権力の利益を代弁し、被害者を抑圧してきたということ。そして、その体質は変わらず、現在(1970年前後)でも変わらない。
Ⅱ 足元の現実からの出発 ・・・ 公害の規模がある規模を越えると、原因企業を擁護することができなくなる。権力その他の介入であるところで妥結するが、(1)原因に対する責任はたいていあいまいにされ、(2)公害防止の基準は科学的にではなく政治的にきまり、(3)決定された補償が実現するのに時間がかかる、そのため最も深刻な被害者は闘争の過程でなくなることがしばしばだった。そのようなあいまいで無責任な対応の結果が1970年当時の足尾銅山跡で、草木の生えない「地獄図絵」のような景色になっている。そこにいくには徒歩で数時間の行程が必要。これは人跡まれなところに廃鉱を捨てたことが原因。70年たっても自然は回復しない。
Ⅲ 公害列島・七〇年代 ・・・・ 個別資本と総資本では、公害に対する感覚が異なる。個別資本は自社の利益のために公害闘争を徹底的につぶそうとするが、総資本は全体の利益を考慮するので公害防止コストを飲むことがある。官僚は資本から利益を引き出すこと・管理する権力を得ることなどを目的に動くから、被害者の側に立つことはない。東京大学に代表される学問研究の場も、官僚・経営者の育成と研究費の獲得が必要であるから資本と権力の側にたつ。労働組合も、自分の所属する企業や業界が批判されることを嫌うから公害闘争に敵対する。政党や党派は次の論文のとおり。ここにおいて希望は被害者の側にたつことを決めた「市民」、というか個人であり、その非組織的な・アメーバ的な動きにしかない。
Ⅳ 公害闘争は反体制運動か ・・・ ここでは主に左翼政党、新左翼党派、労働組合などの組織と公害反対運動組織の違いを述べる。端的にいうと既存組織、政党は負けても次があるが、公害闘争は勝つか無か。その真剣さとか、参加の意識、運動論はまったく異なる。こういう組織に依拠する連中は、厳しい場面ではすぐに日和るし、頭でっかちの現実無視の理論を振りかざし、まるで役に立たない。
Ⅴ 自主講座運動を考える ・・・ 1960年代の学生闘争はすでに挫折していた。その結果、大学内部が知的にも組織的にも退廃していた。すなわち実験を行わせ成果を収奪する対象である院生・助手がいなくなり、出世の糸口としか学問を考えない無気力な学生が残り、教授は自信喪失していたから。ポーランドの大学の成り立ちを聞いていたので、市民向けの自主講座を開始した。
Ⅵ 「生産力」信仰への疑問、Ⅶ 「反体制理論」の正体 ・・・ 宮本憲一との往復書簡。宮本は経済学者で「日本の公害」「恐るべき公害」を岩波新書で出していた。上記と同じく既成組織および政党がいかに公害闘争に役立たないか、ないし足を引っ張るかという話。問題は(1)既成組織は生産力向上が最優先課題とみなしていること、(2)組織の維持が目的であり、組織の存立基盤を揺るがす行動には全力で抵抗すること、あたり。著者は憎悪というか呪詛くらいにまで感情を高ぶらせている。もちろんその先に、資本・政治家・官僚という三位一体のこの国の<システム>があるのだ。
第二部 新潟水俣病を追って
Ⅰ 阿賀野川を汚したのは誰か ・・・ 1967年の裁判の様子。公害をもみつぶすひとつのやりかたは、上位の組織、委員会などを際限なく作って結論を出すことを引き伸ばすこと。政治の場ではこのようなことができる。裁判は3審だから、うやむやはないが決着が付くのに時間がかかる。この裁判も二次訴訟、三次訴訟とまだ裁判が続いている(2011年)。あと、科学は損得の基準を出すが、そこに政治と資本が介入するとわけがわからなくなる。あと、この事件では科学の側が資本・国家の側に立ったということも重要。
Ⅱ 昭電を告発する ・・・ 1971年の裁判最終弁論。被告昭和電工の悪逆は、(1)原因解明に必要な資料を焼却し原因と思われる工場を裁判中に閉鎖、施設を処分したこと、(2)被告弁護側の科学者は、被告に不利になるデータを無視して統計処理したこと(それなんてニセ科学!怒)、(3)因果関係立証責任を原告(公害被害者)に押し付けたこと((1)をやっておいてなんという言い草、怒)。
Ⅲ 新潟水俣病裁判の反省 ・・・ 1971年の一審判決後の総括と自己批判。これは読むものの姿勢を正すだけの厳しさをもっている。被告勝訴の判決を勝ち取りながらも、被害者救済にはほど遠く、手弁当で支援するものは生活を失いかねない状況で、かつ時間のない中での戦いで、なおかつ自分に不十分なところがあることを指摘できるとは。前衛を称する党派、グループはこれを読んで恥ずかしさのあまりうなだれるにちがいない。もちろん自分もその一人。
第三部 公害闘争の渦中で
◇ 水俣病への闘い ・・・ 公害闘争は、(1)陳情や請願では解決しない、(2)権力や権威に抵抗することが根本、(3)国や自治体は解決の時間を引き延ばし結果として公害加害者の利益になるように行動している、ということを理解すべし。
◇ 富山に念いを馳せて ・・・ 公害は人間の全存在に関わってくるのであるから、要素に分解して総合するというやり方では問題を捉えることはできない。被害者の言葉を聴くこと、現場に出かけることが重要。
◇ 最先進国の悲惨と栄光 ・・・ 公害はこの国が最先端(被害の深刻さと規模と種類の多さについて)をいっている。外国の文献や経験は役に立たない(それを理解しない科学者と官僚の存在意義はどこにある)。
◇ 高度成長政策への反逆 ・・・ 生産力向上、賃金上昇など資本も労働組合もスローガンにしてきた戦後の経済成長には問題があるのではないか。国と資本は豊かになったが、国民は貧しく、少数者に悪いところを押し付け放置している。
◇ コラム篇 ・・・ 略

 著者の行動の動機になっているのは、(1)勉強、就職に使った科学が結果として人びとに悪をなしてしまったこと、(2)水俣病の原因に肉薄していながら新しい被害者を生んでしまうことを止められなかったこと、(3)所属している組織(東京大学)が公害加害者に加担し被害を止めないこと。彼は新潟水俣病裁判の補佐を申し入れ、裁判闘争に参加する。すなわち、上司や同僚などが加害者の弁護人や証人であるのに対し、被害者側の補佐人として彼らに反対尋問することになる。その結果、彼は東京大学都市工学科での昇進を止められ、約25年間助手のままとなる(のちに琉球大学教授に転任した)。自分に不利益が生じることを覚悟したうえで、正義を実現する行動をとったというわけだ。これはなかなかできることではなく、その決意を貫いた立場はすばらしい(小声で言うと、大学の助手になった時点で公務員となり、そう簡単には馘首されないという事情もあった。会社の一方的な都合で馘首や配置転換その他のパワハラが可能な企業人とは少し立場は異なる。)
 中山茂、里深文彦らが「市民のための科学」をいうときに、モデルというか念頭にあったのは、著者の運動であったのだろう。このとき、「市民」は明確な形をとっていたし、善と悪も明確になっていた。しかし、1980年代以降にこのような市民の要求に行政が応えるようになる(あるいは積極的に施策を示す)になると(そこには行政や官僚が権限を拡大するという自己保存要求もあっただろうが)、善と悪が明確にならなくなり、市民も明確なイメージをもたなくなっていった。そこにおいて「市民のための科学」はどんな形を取れるのだろう。とはいえ、水俣も、ヒロシマも解決しているわけではなく、いまだに訴訟が続いているのだ。ごく少数者の権利とか要求とかに、自分も含めた市民というか国民というか住民が無自覚になっているのだ。