odd_hatchの読書ノート

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宇井純「公害原論 補巻II(公害住民運動)」(亜紀書房) 希望は個々人が行う住民運動のネットワーク。組織のない運動は長期に継続するのが難しい。

 サブタイトルは「公害住民運動」。ここまで(初出1974年)15年続けてきた活動をまとめる。

住民運動は、何の手引もなく未踏の分野を進まなければならない。そこには多くの困難があり、しかも自分たちの生活を守ることだけが成功の報酬という無償の行動である。(Pi)」

 行政、企業、官僚、専門家が公害では役立たずで、問題解決能力を持たない。希望は個々人が行う住民運動のネットワーク。当時全国で起きている住民運動に、水俣病対策支援と自主講座で培った経験と知恵を現地にいってそこの住民などに分ける活動を行う。

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I.公害と住民運動(雑誌「展望」1974.11) ・・・ 公害原論全10巻のまとめとでもいえる論文。企業、行政、学者など加害者の過失をびしびしとあばき、それに対抗する住民を支援する。豊富な具体例が提示されていて、著者の現地に足を運ぶことの徹底ぶりがわかる。そして15年同じことを続けてきたことのすごみも。

「日本においては、過去も、現在も、そしてここ当分の未来にも、公害を食い止め、環境を改善していく力の中心となるものは住民の運動であって、その他の要因はすべて住民運動を通して副次的に作用するものである。現在の日本で世界最高の公害を、いささかでも食い止めているものは、住民運動しかない。法律や行政、そして科学技術も、住民と公害の基本的な力の.ハランスをどう変えるかという点で、その立場と使い方により、公害をふやしたり、減らしたりする効果を持つ副次的な要因としてはたらく。したがって制度だけを変えても公害はなくならないし、科学技術の進歩によって公害がなくせるという幻想もすてなければならない。われわれは現実を直視することから出発するほかない。(3-4)」

 

「公害の歴史をふりかえってみると、常に直接行動か、その一歩手前の情勢になって初めて大幅な企業や行政の譲歩が起こっている。(P52)」

 

「考えてみれば公害はすべて一種の権利侵害の実力行使であり、場合によっては緩慢な殺人といってもよい結果さえ生むのであるから、これに対する市民の権利行使からこれまで直接行動が外されてきたのが不思議なくらいであり、今後もいろいろな形の直接行動が試みられることになるだろう。(P52-53)」

 

住民運動について議論することは、自分がどれだけ自立した考えを持ちつづけ、公害を止めるための活動を持続してやっていくか、それを通して運動に有利な条件をつくり出していく作業を毎日領み重ねる以外には意味がないように思われる。(P58)」


Ⅱ.地域開発計画の公害問題 志布志にて 1972.3.2 ・・・ 志布志に石油コンビナートを作る計画が持ち上がり(当時の知事は金丸信)、反対運動が組織された。集会に宇井純が招かれ、出張講義になった。苦情が出ても公害を垂れ流し、周りの人が追い出して土地を奪うのは常套手段。一か所でも足掛かりを作らせたらダメ。組織(自治体、漁協など)の合併は一人一人の発言権を弱めるので反対するべき。上が抑えられると、すぐにつぶれる。なので、個人が各自の創意で好きなことやりたいことをやるのが強い。こけたら真似しない、成功したら真似するでよい。公害の専門家はいない。現地の住民のほうが詳しい。暮らしがかからないと勉強は身につかない。


Ⅲ.公害技術の基本観点 1972.1.19 ・・・ 下水処理のための水、細菌、活性汚泥の解説。当時の大学1-2年生の内容。


Ⅳ.公害裁判の意味と役割 1972.2.16 ・・・ 公害裁判を経験してのまとめ。弁護士が頑張っても金銭や時間の制限があるし、法律家は現実がでてから追いかけるので不利。原告ががんばらないとやっていけない。外の批判がないと弁護活動も停滞する。裁判は限定された救済であり、被害者や保障に制限が生まれてしまう。なので裁判は運動の一部と考えるべき。裁判のよいところは記録が残り、普通では入手できない資料を閲覧できるところ。

「貧乏になったのは働きが足らないからであって、それは最低限の救済でとどめるべきだという思想が救貧法の時にはっきりある(P165)」

という指摘が記憶に残る。こういう明治政府以来、政治や官僚には民衆蔑視があり、それは21世紀の日本国民に定着している。通常社会保障の制限は新自由主義の主張と思われるが、この国では国家主義や官僚制に由来しているようだ。この考えから公害被害者への補償や生活保護への冷淡さが生まれる。


V.公害科学生誕の経路 1974.3.18 ・・・ 公害反対運動では企業や行政のでたらめに、運動側が科学的に反論しなければならない。専門家は知識を売って生活しているから、知識を独占したがる。あるいは行政や企業のひも付きになる。素人の調査や直感がしばしばもっとも正しく、公害の測定や基準に公正なやり方を示せる。行政や企業は「電力不足、物不足をどうする」と恫喝してくるので、それに対抗する論理を作らないといけない。分配と公正を実現しろ、公共料金や資源の逓増法(使うほど高くなる)、開発モラトリアム、成長ゼロを容認する、など。

 

 

 公害原論の講義が行われて50年が経過したとき、振り返ると、住民運動は継続しなかった。70年代の石油ショック円高で日本の企業は海外に移転。その結果、目に見える公害(煤煙、スモッグ、川の汚染、食品の汚染など)は消えていく。公害被害者は隠されて、問題が見えにくくなる。そうして目標を失った住民運動は80年代でほぼ消滅。ミッションを失った組織や運動は消えてもかわまわないが、新しくつくられなかったので、様々な知恵やノウハウが伝承されなかった。それは日本の運動の弱さで、問題なのだろう。
 宇井純は昭和40年代の公害運動を通して、公害(研究)の最先端は日本だと繰り返す。その後の40年で日本の研究は欧米に追い越された感がある。公害や環境破壊防止等に関する研究、提言、政策はほぼ欧米で先行して行われていて、日本は後追いすらできていないのではないか。

 

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