odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

芥川也寸志「音楽の旅」(旺文社文庫) 「父」を「龍之介」と呼ぶ作曲家の軽妙な語り口の自伝。でもこの人はしゃべりのほうがおもしろかった。

「父・龍之介の書斎でストラビンスキーを聞き入った幼少の思い出から、現在の作曲家・指揮者の生活までを語る自伝抄「歌の旅」、人びととの出会いや外国旅行記を含む「出会ったこと忘れ得ぬこと」、音楽教育への直言「私の音楽教育論」などを収録。すべての音楽愛好家に贈る芥川也寸志音楽エッセイ集。(裏表紙のサマリ)」


 自分には、黒柳徹子氏とコンビを組んだ『音楽の広場』の洒脱な司会者としてなつかしい。また大河ドラマ・映画音楽の作曲家としても知っている。あるいは、堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像」でほんの数行描かれる20歳くらいの描写で知っている。
 でも彼の半生がどうであったかはこれではじめて知った。
・父の記憶はない(彼が2歳と数ヶ月のときに自殺した。享年36歳)。上記の堀田の本でも兄・芥川比呂志は「父」ではなく「龍之介」と呼ぶと記している。
・小学校に入る前に、龍之介の集めたSPでストラビンスキー「ペトルーシュカ」を聞いていて、覚えてしまった。
・作曲家を志したのは18歳以降のこと。勉強しすぎて肋膜炎になったとか。あるいは受験勉強で半年ほどほとんど学校に行かなかったとか。
東京音楽学校卒業後は陸軍軍楽隊に志願して入隊。そこで團伊玖磨と知り合った(これは團の「パイプのけむり」シリーズで知っていた)。
・敗戦後は、伊福部昭に師事。團伊玖磨黛敏郎の三人で「三人の会」を結成。5回のコンサートを行って解散。
・1954年にウィーン経由で国交のなかったハンガリーにわたり、半年間ソ連で研鑽。自作の発表も行われた。
 まあこんな具合か。このような自伝を語るときは軽妙な語り口で魅力的。でも後半の音楽教育に関する議論になると、とたんにつまらなくなる。理由のひとつは、文部省の音楽教育指導要綱がつまらなく、くだらないものであること。相手の論がひどいものだから、その反論もできは悪い。もうひとつは、この人の文章の力。そうだな、作曲と啓蒙家としての仕事のほうが文章よりも断然に面白い。
 この人はとてもダンディで、オールバックの知的な表情とか気品のある物腰、丁寧な喋りなど、大人の魅力を持っている人だった。にもかかわらず、音楽は、とくに交響作品では猛烈な勢いのあるアレグロが印象的。その執拗なオスティヌート(しかし都会的なところは師の伊福部とは異なる)にも特長があった。「交響三章」のフィナーレ、「交響管弦楽のための音楽」の第2楽章などが典型。
 この本には、伊福部昭を芥川・黛・團が囲む写真が載っている。師匠のほうが長生きし、弟子の三人が先に逝ってしまった。師匠も先年旅立たれた。合掌。