odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

森本恭正「西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け」(光文社新書) 西洋音楽は産業革命と植民地拡大時にグローバル音楽になったが、古典派以前にあった音楽の約束事・しきたりが失われた。

 著者は1953年生まれ。たとえば坂本龍一が1952年生まれ、桑田佳祐が1956年生まれなのと同時代人。とすると、ドメスティックな音楽がこどものころから身近にあり、西洋音楽を写した歌謡曲を聞き、小学生の時から洋楽やビートルズを聞いていて、戦後の前衛音楽のコンサートに行っていた(最後のを桑田がやったとは思えないが)。いつでも多種多様(しかし日本の資本主義とナショナリズムのバイアスがかかっているが)な音楽が身近にあった。それより前の世代は、JazzがFENで流れていたとしても、自覚的に選択しないと聞けなかった。そうすると、著者は指揮者で作曲家であるのだが(すみません、本書を読むまで知らなかった)、西洋音楽は世界の普遍音楽であるという認識を持たない。地方民族音楽の一種であるが、資本主義と国民国家によってグローバル化した特殊な出自だが普遍的になって/されてしまった音楽だという認識をもっている。そこは岡田暁生西洋音楽史」(中公新書)と同じ発想にある。
2018/05/11 岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書) 2005年


 自分のようなクラオタで、かつ似たような問題意識を持っていたものからすると、本書は刺激的、だけど記述は残念。指摘や発想、他文化出身者による日本文化批判などは鋭い所があるのに、歴史的・観念的に書くことができていないので、筋や流れを見いだせない。これは音楽史や文化史の研究者が補足すればよかったのに(そのような不満がない柴田南雄、諸井誠、小倉朗などの作曲家はすごかった。まあ彼らはポップスにはさほど関心を持たなかったが)。
2014/12/17 柴田南雄「グスタフ・マーラー」(岩波新書)
2012/07/30 諸井誠「音楽の現代史」(岩波新書)
2017/03/29 小倉朗「現代音楽を語る」(岩波新書) 1970年

 著者の問題意識は、西洋古典音楽は上記のような音楽であるが、20世紀後半には消滅しつつあるということ。西洋音楽産業革命と植民地拡大時にグローバル音楽になったのだが、その際に音楽のパトロンが貴族・聖職者などのディレッタントからブルジョア・インテリなどの中産階級に変わった。後者は音楽の訓練を受けていず歴史を知らないので、古典派以前にあった音楽の約束事・しきたりを知らない。そのために譜面に書かれないたくさんのことが失われてしまった。代わりに五線譜を至上とする見方が始まり、楽譜通りに演奏することに価値を見出すようになった。それが口頭伝授を必要としなくなり、教科書を見ながら自習できるようになり、その経験が西洋音楽をグローバル音楽にする契機になった。失われたことは、たとえばアフタービートであり、装飾音の付け方、アクセントのつけかた、スウィングリズムなどである。それは当時の本を参照することで少しはわかるが、書かれなかった伝承は途絶える。
(少し異論。西洋音楽がアフタービートだといえるのは、モーツァルトハイドンまでではないか。なので古典派までの音楽はエキサイトさせるのが音楽の重要な役割だった。(と著者は主張するが、彼ら以前の音楽は主に機会音楽か教会音楽なのでエキサイトすることが目的とはいいがたい。前拍になったのはベートーヴェンからのように思う。つんのめるようなリズムや煽るテンポ、行進曲の導入などでベートーヴェンの音楽はエキサイトをもたらすが、それはフランス革命の音楽の影響ではないか。こんな具合に歴史や社会を加えてみると、著者の主張はおおざっぱすぎ。)それ以降のロマン派、とくにドイツロマン派は前拍の音楽になっている。顕著なのはブルックナーワーグナー。ロマン派以降はエキサイトは音楽の役割ではなくなる。)

 以上の変化は、おもには楽譜や教科書が出版されてそれで教育する/されるようになったためである。啓蒙のシステムは知識や技術の平準化に大いに寄与したが、テキストや図表にできないことは無視してしまった。むちゃくちゃをいえば、そこに理性を優位にする啓蒙が「野蛮」に転化する危険をみいだすことができる。また、この時代に文献学、テキストクリティークが始まったのと並行関係にあるだろう。

 作曲技法やマーケット以外に、著者はウイーン在住ということでオケやオペラのシステムの変化でみる。たとえば、戦後ではジェンダーの壁がなくなり(女性奏者が増える)、人種の壁が壊される(東洋人に門戸が開かれる。ブラックやイスラムなどにはまだガラスの壁がある)。通常これらの変化は人権の拡大で肯定的にみられるが、演奏する音楽が18-19世紀に書かれたものなので当時の規範を破壊している。でも受け入れないと西洋音楽が消滅するので、積極的に異文化を取り込むことで延命を図っているのだ。「種」の保存のための適応戦略であるとみている。
 その最初の事例をベートーヴェン交響曲第9番終楽章にみる。最初の歓喜の合唱のあと、トルコの行進曲が始まるが、それはヨーロッパの周辺の文化を取り込むことであり、トルコ音楽のオン・ザ・ビート(前拍)がコーダまで一貫するのはアフタービート(裏拍)の西洋音楽の否定なのである、それはベートーヴェンによる西洋音楽の危機の表明であり、異文化と交流することで延命を図る方策の提示なのである、と。アーノンクールとは異なるおもしろい見方。アドルノはぜったいに受け入れないだろう。

<参考エントリー> ベートーヴェン交響曲分析
2017/04/10 テオドール・アドルノ「ベートーヴェン 音楽の哲学」(作品社) 
2012/07/28 諸井誠「名曲の条件」(中公新書)
2018/05/08 金聖響「ベートーヴェンの交響曲」(講談社現代新書) 2007年
2017/04/14 田村和紀夫「交響曲入門」(講談社選書メチエ) 2010年

 あとはメモで。
・古典派以前は主和音から逸脱しない。これは君主制にもとづく。君主制はオーケストラというシステムに典型的にみられる(指揮者という君主。隣りと交通しない下々の楽器群)。

・12音技法はすべての音を平等に扱うが、階級制を破壊するロシア革命と同時期なのは意味深。(シェーンベルクユダヤ教回帰で「すべての音を平等に扱う」を説明する事例もあったな。)

・西洋では次の音を弾くための準備が必要、急に転換することは(前衛音楽以外)ありえない。西洋人は体格が大きく指が太いので、弦楽器の指板やピアノの鍵盤を正しく押さえるのが苦手なため。小さい手と細い指を持っている東アジア系は苦もなくやってのける。なので、東洋人が次の音を弾くための準備を無視するのは困る(逆に東洋の音楽は緩急・強弱の切り替えが一瞬で起こる)。

・フレーズはどこで始まったのかどこで終わったのかをきちんと示すことが肝要(と著者はいう。トスカニーニベームなどの20世紀前半の演奏スタイルや21世紀のピリオド奏法がこのやりかた。でもピリオド奏法ではフレーズの終わりを次のフレーズが食うことがあるので、つねにはっきりしているわけではない。一方、20世紀後半のカラヤンは音の始まりをあいまいにするよう指示していたと吉田秀和が書いている)。

片山杜秀「クラシックの迷宮」で喋っていたことによると、弦楽器のヴィブラートは20世紀初めから流行りだした。演奏会場が大きくなり音を遠くまで響かせる必要が生じたことから生まれたテクニック。ヴィブラートをうまく使うクライスラーのスタイルが聴衆に受けて他のソリストが真似するようになり(1920年代)、それがオーケストラにまで広がって(1950年代)、戦後のオーケストラの分厚い響きになった(アメリカで先行してヨーロッパは後追い)。テンポがゆっくりになったのはオーケストラが大人数になり、小節を合わせるのが難しくなったから。これらがクラシック音楽からアフタービートやスウィングなどを失わせた理由なのだろう。20世紀半ばのクレンペラーベームカラヤンチェリビダッケ、ヴァントなどに顕著。21世紀のオーケストラは技術が上がったのもあって、指揮者はアフタービートやスウィングを重視するようになった。

<参考>
オーケストラ演奏におけるビブラートの歴史 (3)

www.fugue.us


(これらの指摘から日本のやりかたをみる。2020年のコロナ禍で外国人指揮者を呼べなくなった日本のオーケストラは、奏者ほか指揮者、ソリストなどスタッフ全員が日本人のコンサートを行う。そうすると、音楽が前拍になり、フレーズが平坦になり、アクセントがなく、雑音成分の多い「濁った」音になり、主和音があいまいになり、ゆっくりしたテンポで、リズムが鈍重になり、緩急強弱の付け方が唐突な演奏になった。1970年代以前の日本のオーケストラでよく聞けた演奏だ。典型は朝比奈隆。そのやりかたは伊福部昭松村禎三黛敏郎芥川也寸志などのある時期の日本人作曲家にはあっていた。この傾向はしばらく消えていたが、2020年からのパンデミックで異国の演奏家が加われなくなると復活した。2021年後半から外国人の指揮者が登場すると、これらの特長は消えた。)

・アラビア起源の弦楽器はヨーロッパに入ってからノイズ成分をつくるFUZZを取り外し「澄んだ」音を作った、それを受け入れたのは上流階級とディレッタントだけ。大衆はノイズ成分の多い音や歪んだ音(ロックなど)を好む。
BOSS FZ-5 FUZZ エフェクター【ボス FZ5】 | 島村楽器 仙台ロフト店

エレキギター(死語)では“FUZZ”エフェクターで音を歪ませる。)

・ジャズはアフリカなどの民族音楽西洋音楽の五線譜記法であらわしたもの。

・指揮者の仕事は一拍あとの指示とスウィングを作ること。指揮棒の円運動がスウィングを示す。
(これは小倉朗が「日本の耳」に書いていた。一方で、20世紀半ばまでの指揮者には几帳面に三角や四角を振る人がいる。彼らの音楽はスウィングにならなくて、行進曲のようになる。クナッパーツブッシュやボールトなど)

・ロマン派のテーマは狂気。
(ということを著者は強調しているが、美術史と文学史では昔から指摘済の常識だ。でも、音楽で狂気がテーマになったのはフランス革命からナポレオンの革命の輸出の時代まで。ベルリオーズの「幻想交響曲」、ベッリーニドニゼッティのオペラの「狂乱の場」など。メッテルニヒ体制が確立して以降は物語や陶酔エクスタシーなどに移行する。)

 ここら辺が面白かった記述。18世紀末に西洋で政治と社会の大変革が起こり、その影響下で文化芸術の伝統と規範が変わった。そのことが忘れられ、あたかも切断がなかったかのように歴史と芸術を見るようになった。ここは重要。俺は理屈と歴史が好きなので、もっと枚数を使って広げてほしかった。歴史記述にあやまりやあいまいさがあるので、つっこみされやすい脆い主張になっている。なので音楽史や文化史の研究者が補足することが必要だった。