odd_hatchの読書ノート

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金聖響「ベートーヴェンの交響曲」(講談社現代新書) 21世紀になって刷新されたベートーヴェン像に基づく解説。指揮者も暴君や巨匠からファシリテーターやプロジェクトマネージャーに変わる。

 玉木正之(1952年生)が指揮者・金聖響(1970年生)にインタビューして交響曲の魅力を語るという企画第1弾。
 ベートーヴェン交響曲クラシック音楽のアルファであり、オメガ。なので、個々の曲ごとに傾聴することにする。以下では気になる言葉をメモした。


交響曲第1番ハ長調 Op.21(1800年) ・・・ 第1楽章冒頭の不安定な和音。第2楽章の「純粋音楽」。

交響曲第2番ニ長調 Op.36(1803年) ・・・ 軽やかな音楽。踊れない踊りの音楽(第3楽章スケルツォ)。

交響曲第3番変ホ長調「英雄」 Op.55(1805年) ・・・ 最初の和音がすべてに鳴り響く。ピリオド奏法の具体例。終楽章の第5変奏はださいとのこと。この動画の4分13秒から。
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交響曲第4番変ロ長調 Op.60(1807年) ・・・ ハイドンモーツァルトらが型を作ったあとに型を破壊するベートーヴェンが来たのは幸い。三拍子なのに二拍子に聞こえる第3楽章(ヘミオラ)。C.クライバーの演奏はすごいぞ。

交響曲第5番ハ短調 (運命)Op.67(1808年) ・・・ 古典派交響曲の到達点。内在する力と緻密な構成。第3楽章はトリオの方がスケルツォ的(普通と逆)。過去(古典派)の集大成。

交響曲第6番ヘ長調「田園」 Op.68(1808年) ・・・ 「パストラール」の標題が形式を破る(世界初の5楽章)理由になり、のちの交響詩などの先駆になった。4楽章までの描写の妙と終楽章の昇華と浄化。未来への発展モデル(1)。(交響詩などストーリーを持つ音楽の前駆。)

交響曲第7番イ長調 Op.92(1813年) ・・・ 「最初のディスコ・ミュージック@グールド」。未来への発展モデル(2)。第2楽章のメロディのごときもの(和声とリズムのみの音楽:晩年のピアノ・ソナタ弦楽四重奏曲にもあったな。op.110、op.131。和声とリズムの狂乱はストラビンスキーやバルトークなどの前駆かも?)。

交響曲第8番ヘ長調 Op.93(1814年) ・・・ 古典に回帰しながら、形式を破る。未来への発展モデル(3)。(1920年代の新古典主義の前駆かも? ショスタコーヴィチプロコフィエフレスピーギなどの作品など。)

交響曲第9番ニ短調(合唱付き)Op.125(1824年) ・・・ 未来への発展の総決算。(この先にあるのが、ワーグナーの楽劇か。)
(ここでいう「未来への発展」はコンサートホールで演奏されるオーケストラ音楽に限定されると思う。オペラとサロン音楽は対象外。)


 著者の語りから参考になったところを抜き書き。
・「純粋音楽」は、音楽それ自体で楽しみを得られるものをいう。すなわち、ベートーヴェンより前に作られた「機会音楽」(踊りや儀式や食事や宴会のためのもの)ではないし、同時代にも作られた「標題音楽」(たとえば「英雄」「田園」など)でもないし、このあとに作られた交響詩でもない。純粋音楽には意味や思想などなくていいのだけど、ベートーヴェンの後の時代(俺はシューマンワーグナーあたりと見当をつける)に意味や思想をもつとされた。たとえば第5番交響曲から「運命」や「闘争」などを見つけるような。
(ただこれは、アーノンクールのような読み方を拒否するものではないと思う。)
クラシック音楽の即興は思い付きや「何でもあり」ではなく、用意しているオプションから瞬間的に選択したもの(そうする理由、必然性を持っている)。(ジャズはどうなのだろう。)
・モダンオーケストラの配置(下手からバイオリン-ビオラ-チェロ)は、機械吹込み録音の技術的要請(高い音の楽器、低い音の楽器を集めないときれいに聞こえない)から生まれた。1970-80年代にはストコフスキーがどうの、カラヤンがどうのとオケの側の問題として語られていたが、21世紀には技術の問題に収斂したわけね。あと20世紀にオケの規模が大きくなったので、音をそろえるためにテンポはゆっくりになった。この傾向に「大指揮者」の演奏が重なって、「精神性」が重要になったとのこと。技術や社会的要請が変化を促し、その理由付けのために思想が持ち込まれたわけだ。フルトヴェングラーロマン・ロラントーマス・マンらを先に読むと、このあたりの事情がわからなくなる。
・昔の指揮者は思考力に優れていたので「堂々たるベートーヴェン像」「人生や哲学」を引き出すのに力を注いだのだろうが、「私(著者)」は運動能力のほうに自信があるので、リズム感やスピード感を重視する。(ああ、別書で、過去のオケ団員は一子相伝の徒弟であったので学識がなく、指揮者の知識と理論に感銘していた。戦後はオケ団員は大学で専門教育と一般教養を学んでいるので、指揮一筋の指揮者より知識が多い場合があるということをいっていた。なので、「大指揮者」風の統制者・独裁者になれず、調整者・ファシリテーターになるというのを読んだことがある。)


 指揮者による個々の作品の分析はたとえばヴィルヘルム・フルトヴェングラー「音と言葉」(新潮文庫)朝比奈隆「交響楽の世界」(早稲田出版) がある。これらの「大指揮者」の時代の人たちの文章に比べると、思弁的なところや技術に拘泥したところがなくなる。指揮者が思想家や職人であるところから、作品・歴史・経験・技術・思想などの整理と方向付けに役割を変えてきたことが背景にありそう。カラヤンバーンスタインクライバー(子)のような大指揮者のあとの世代は、ピリオドアプローチとプロジェクトマネジメントの両方を覚え、発揮するようになったということかな。その結果音楽の推進力やリズムの楽しさが全面に出てくるようになって、自分には楽しい。ベートーヴェン交響曲全集(CD)はいつのまにか20以上も持つようになったが、よく聴くのは、1980年以降のピリオドアプローチの方だし。
 また、ベートーヴェン像も21世紀になって刷新された。前掲のフルトヴェングラーのもそうだし、 ロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)諸井三郎「ベートーベン」(新潮文庫)テオドール・アドルノ「ベートーヴェン 音楽の哲学」(作品社) 、 脇圭平/芦津丈夫「フルトヴェングラー」(岩波新書)というような20世紀前半に書かれたベートーヴェン像の思想や市民の解放、個我の確立というような重苦しさが消えて、冗談や踊りが好きで快活なところを前面にだすようになった。これは本書中にでてくるように、ロックやジャズほかの音楽とクラシック音楽は対等であるという文化相対主義からでてくるもの。それに音楽を教養や人格の修養の手段にしないという変化も反映されている。


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