1980年の語りおろし。前著「あなたにとって科学とは何か」に対する批判があって、分子生物学からなぜ発生生物学に変えたのか、科学批判はどのようにあるのか、などを話すためのもの。
彼は1947年から核酸の研究を始めていて、西欧の分子生物学の興隆を実感できる立場にいた。いくつかのアイデアはあったが、研究費が少ない(アイソトープとその検出機器が高価で購入を断念)ので、ほかの人が先に発表したものもあったという。1964年から初期の分子生物学者(ワトソン、クリック、ステントその他)がいっせいにほかの分野に移動していった。そこらを踏まえて1964年以降の分子生物学を批判する論点は、(1)当時の分子生物学は分子レベルの研究が生物の仕組みを解明するとは考えていない。ある生命現象(遺伝、タンパク質の製造、免疫系など)の説明が分子レベルでできると考えて理論を先に考えた、(2)その後に参入した分子生物学はたんに分子の構造解析など手法に頼った研究だけ。分子レベルの挙動を枚挙して、その集積で生命現象を説明できると考えているようだが、それは誤りではないか、ということ。
というわけで、分子生物学に失望して、発生生物学に移動することになった。彼の選択したのはチョウ、鳥その他の生物にみられる紋様形成であって、これを分子や遺伝子の挙動でもって説明するのは難しい。この時点では彼はありふれた分子の位置情報が重要なのではないかというアイデアをだしている。たとえば細胞表面の脂質の分布量によって、細胞が集まりやすくなったり離れたりするのではないかとか。初期発生で細胞数の少ないときに、どの細胞が何に分化するかは卵全体の物質濃度分布でもって説明できるのではないかとか。そのアイデアから30年経過して、さてどうなっているかは自分は知らない。発生学と細胞学は苦手だったのでね。のちの「構造主義生物学」ほど概念は練れていないが、まだ生命現象に近いところで考察しているので、通常科学の研究者でも賛同しやすいのではないかしら。「構造主義生物学」になると、ソシュールとチョムスキーが必読になりそうで、「理系」の先生や学生には敷居が高すぎそうだ。
あとここでは廣松渉の「こと的世界観」を使って、「こと」と「もの」を区別し、「こと」でもって生命現象を見る必要があるという。発生や紋様形成のような現象を遺伝子でもって説明することはできなくて(発生途中の細胞の位置を変えると、ちゃんと分化することもあれば、奇形を生じることもあるという現象)、遺伝子以外の構造があるのではないかという(だから当時まだ未紹介のウィルソンの「社会生物学」を批判する)。さらに、細胞分裂とかDNAの複製というのも、普段は何も定常状態なのに、あるときにいきなり変化が始まるというところ。生命現象には非線形ないし動的な仕組みがあるけど、分子レベルでは説明できないだろうという。だいたい同意。とはいえほかの人が主張すると、批判的になりそうなのは、柴谷の文体と知識に自分が共感しているからだろう。
もうひとつの主題は「日本人論」。1970年代前半は日本人による日本人論が書かれたのに対し(土居健郎「甘えの構造」、中根千枝「タテ社会の人間関係」、イザヤ・ベンダソン「日本人とユダヤ人」など)、後半になると諸外国の人による日本人論が出てきたのだった。とはいえ、「日本人はユニーク(諸外国との共通点なし→経済成長は日本に学べ)」「日本という国スゲー(その割に人々は貧しいし、何を主張したいかわからん)」みたいな内容だった。しかも現地調査や聞き取りなどを行わないで、著者の印象と個人的な体験だけで書いているものだった。それでは不十分と著者はいう。両者の視点でももって、ユニークさも共通さもどちらも見ないといけない。著者の主張もまた自分の経験をもとにしているのだが、彼は1980年時点ですでにオーストラリアに十数年居住しているので、両方の視点をもてる立場にいるとする。たしかにカラオケ(アレンジができず機械に自分をあわせる、合唱にならない)とか、贈答文化(商品の価値が、使用価値でも交換価値でもきまらず、贈答価値によって決まる)などは面白い発想。とはいえ、日本人のユニークさの科学的な根拠として、世界の知識人に流行っていた日本発の発想である今西進化論に角田忠信「日本人の脳」を持ち出すのは勇み足だった。
バブルの前でようやく日本という国が注目を浴びるようになった(廉価だが品質の悪い商品をダンピングで売る国から品質の高い製品を開発し安く提供する国になり、不思議な風習をもっていて、経済では好戦的で政治ではリーダーシップがないなど)、それにはにかみながらも胸を張ろうとしていた時代の記録。
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