odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

柴谷篤弘「今西進化論批判試論」(朝日出版社)

 著者は今西進化論批判の本をいくつか書いているが、これがもっとも古くて、最も網羅的。取り上げているのは今西進化論だが、実のところはネオダーウィニズムの優れた紹介になっている。これを準備するにあたり「種の起源」の前の草稿をファクシミリ版で読み、本文では博物学・動物行動学・遺伝学・分子生物学生態学・発生学など分化した生物学の諸相の基本と最新知見(もっとも1980年現在だが)があって、これほど広範な進化論の解説はめったにない(タイトルを変えて再販したらどう?)。

ダーウィンの「種の起源」初版は1858年に出版された。以来さまざまな批判にさらされて、主張は後退していった。主な問題点は遺伝と分化の説明ができなかったこと。そのため、ダーウィンの考えは死後、放置され、再発見のうえ再構成されたのは1940年代になってから。メンデル遺伝学の再発見、集団遺伝学と生化学の進展、動物行動学や生態学の知見の集積が背景にある。一方で、スペンサーの社会進化論に見られる俗流ダーウィニズム俗流メンデリズムは社会で受容され、「自然選択」「生存闘争」などの用語がダーウィンの意図する内容とかけ離れていった(端的には政治思想や経営学などに取り込まれたわけだ)。したがって、ダーウィン批判とネオダーウィニズム批判は分けられるべきだし、俗流ダーウィニズムと統合進化説もまた区別するべき。とはいえたいていの論者はここを混同していて、今西も例外ではない。
 というわけで、進化論の用語が再検討される。同時に今西の考えが検討される。
・「適応」について ・・・ 適応は絶対なことではない。別の種や環境と比較したうえで、相対的な意味と価値をもった考え。そこにいる生物は「とりあえず」現在の環境に生息していて、チャンスがあればもっと個体に最適な環境に移動することを躊躇しない(ニワトリやブタの中で生まれたインフルエンザウィルスがヒトに感染するのも、よりよい環境に適用しようとする生物行動のひとつか?) なにしろ、環境に「絶対」に適応していたら進化しないしあるいは環境の変化で絶滅するし(そういう種は存在するがすべてが絶滅するわけではない)、一方、外来種が在来種を駆逐することが見られるように実際の生物のあり方ともあわない。
・「生存競争」について ・・・ ダーウィンはふたつの意味を持たせている。ひとつは、同じような環境で同じようなえさを捕食し、同じような行動様式を持ちながら互いに干渉しあうことのない(えさや住処をめぐるバッティングがない)二つの種があるとする。そのとき差異になるのは増殖の速度がわずかに異なるということのみ。そうすると環境全体の生物数には制限があるが、このような種が世代交代をするうちにわずかな増殖速度の違いによって、世代をずっと交替したのちには片方の種が別の種を駆逐するだろう。こういうI型の生存競争がある。見かけは共存。しかし、超長期的には競争が行われている。もうひとつは従来ないし俗化された同じえさをめぐる同種ないし似たような種の間の競争。こちらはみかけは競争だが、普通はこのII型の競争である種が駆逐されることはなく、超長期的な共存(個体数の増減はあっても)とみなせる。
・「すみわけ」について ・・・ 今西の考えでは、環境の適応の結果、種(の個体群)が住処を同じにして競争しない状態のことをいう。むしろ生物と生物の張り合いがあって、一方がある場所にすみつかなくなり、それと逆のことが別の場所でおきていると考えるのもあり。こういうアイデアの競争的排除の原理というのが1930年代に提唱された。上記のような張り合いで残す子孫の数に差異が生まれ、空間の占有が起きたという考え。この現象を共時的あるいは短期間でみると今西の「すみわけ」になる。
・「自然淘汰」について ・・・ 自然淘汰が働くのは単独の生物のように思える(環境に適応できない弱い個体は子孫を残す機会がなく、その遺伝子を残せないという見方)。そうではなくて、複数の生物の相対的な子孫の残す数とかチャンスとかで見なければならない。さらに上記の生存競争I型のように、ある場所をある特定種が占有したとしても、もう一つの種が必ず絶滅するというわけではなく、別の場所では優位にある場合もありうる。そうすると、ある種の近縁種にはさまざまなずれ(形態やえさや交尾行動の様式など)がある。そうして種が分枝したり、個体数や住処を増やしたり複雑化するのが「進化」。進化は社会性を獲得したり、食物連鎖の上位に上がることなどを必ずしも意味しないので注意すること。
・「種」について ・・・ 本能とか遺伝とかで種を構成する個体は同じような行動をすると思われがちだが、周辺ではさまざまな「冒険」が試みられている。普通食べないえさを食べるとか、近縁種と交尾を試みるとか、普段のすみかではないところにいくとか。そういう意味では生物は環境に対して受身であるわけではない。自分に有利になるような行動を積極的にとることにより(移動するとか、えさを変えるとか、生殖回数を増やすとか)、全体に有利になるように行動しているかもしれない(そこに「主体」を見てもいいけど、哲学や人文学で使う「主体」とは大違いだわな。今西はここを強調しすぎた?)
 あと今西の言うように、ほとんどの個体の死は種に意味を持たない。生殖機会を持つ前に餓死したり他の生物に食われたり。そういう死が99%だとしても、残りの1%にI型の生存競争が働き、さらのそのわずかな率の突然変異が次世代に受け継がれたという仮定でも、膨大な時間と世代交代を経たとき、生物に起こる差異は無視できないものになってくる。そのスケールは人の一生では思いもよらない長大なものであるはず。(ヒトの世代交代が20年として、10万世代の世代交代には200万年かかる、おお巷で言われるヒトの発生時期と同じではないか、この時間と世代交代の回数があれば草原のヒトザルと熱帯雨林のチンプに種が分かれ、もはや交尾できなくなるのも当然という具合。この計算は評者である自分の考え)
 でもって、種の内部では少しずつの変化が絶えず行われ、遺伝子の突然変異として染色体に残されている。それは中立だったり劣性であったりしても、残されている。複数の遺伝子の組み合わせで形質が発現することが知られているので、一度の当然変異だけで種が変わるという前提は不要。10万年前の当然変異遺伝子A1と2万年前の突然変異遺伝子A2があるところに、突然変異遺伝子A3ができたら、A1+A2+A3が組になることで発現する形質が変わったと考えてよいわけだ。生物の環境が激変したり、個体数が激減したりしたときに、残された個体のわずかな変異が強調され(個体群の中で優勢になって)新しい形態や行動様式を持つようになる。
 という具合に、今西進化論のきものところはネオダーウィニズムと敵対するとか受け入れられないとか、そんなことはなく、ネオダーウィニズムで説明可能、というのがこの本の主題。今西が科学の言葉で記述しなかったのと、遺伝学や生化学の知識が1930年代で止まってしまったことに原因があり、弟子たちがしっかり解説・翻訳しなかったから。まあ、あいにく今西進化論だと「種は変わるべくして変わる」「淘汰はない」などのスローガンばかりが持ち上げられて、誤解と無知を拡大する人が多そうだけど。しかも今西進化論に人生論とか社会革命などを見出そうとするからタチが悪い。科学理論を社会や人生に拡大解釈するのは危険なのに。
 面白い指摘は、ダーウィニズムは右翼と相性がよく(現在の状況は環境に適応した結果とみなし、現状維持や格差の存在を認め保守する主張と似ているから。この主張は俗流ダーウィニズムダーウィンとは関係ないので、ダーウィンにはお気の毒様)、ラマルキズムや今西進化論はマルキシズムと相性がよい(レーニン主義だと社会や経済体制の変革は自覚した主体が革命家になって成し遂げられるとされるからで、獲得形質の遺伝や主体の強調は彼らの組織論や運動論に酷似。ルィセンコを思いだすこと。今西にはお気の毒様)などが語られ、こういう話は普通の進化論の本ではまずかかれない。あと、上記のようなネオダーウィニズムの基幹部分が遺伝子の挙動で持って説明可能とする要素還元主義には著者と今西は反対であることも追記しておこう。

<参考エントリー>
2020/05/29 チャールズ・ダーウィン「種の起源 上」(光文社古典新訳文庫)-1 1858年
2020/05/28 チャールズ・ダーウィン「種の起源 上」(光文社古典新訳文庫)-2 1858年
2020/05/26 チャールズ・ダーウィン「種の起源 下」(光文社古典新訳文庫)-1 1858年
2020/05/25 チャールズ・ダーウィン「種の起源 下 」(光文社古典新訳文庫)-2 1858年