前著「反科学論」から3年後の1977年刊。前著の想定読者および問いかけ先は職業科学者であったが、こちらでは一般市民(というか非専門家)に対して科学を説明することを目的にしている。もちろん単純な啓蒙ではなくて、科学批判への実践的な参加の呼びかけを含む。
1科学技術にとってあなたとはなにか ・・・ われわれの生活は科学技術の恩恵を受けている代わりに、自分で生活のあり方を決定できない状態になっている。これを変革しようとするとき、科学者は一般市民よりも優れた見識を持つものとして意見を重視され、科学者自身の利益や特権の確保や擁護のために権力の代弁者とみえる。一般市民の側に立つものも少数いるが、全体として科学者は市民との関係や科学知識の社会への影響を考えることに無頓着で経験に乏しい。
2人間の思考はどこまで自由か ・・・ 17-18世紀の西洋では人間の「理性」と科学的方法は世界認識を客観的に、かつ全体的に認識できるものとされた(認識の拡大が世界の完全な把握と変革を保証する)。しかし、人間の認識能力は部分的であり、客観的ではない。その制限は、まず個体の生物学的・体験あり、社会の考え方の枠組みであり、歴史的・風土的な考え方の枠組みである。大冒険時代から帝国主義植民地政策の時期にかけて、非西洋の土地を「科学的」方法(西洋の温帯気候に適応したやり方)で経営したが、環境と土着社会の破壊を引き起こし回復不能な状況にした。生産性には乏しいが土着社会の伝統的な世界認識の方法は、それらを行わないその土地に適切な認識方法であるといえる。
3科学的認識をしばるもの ・・・ クーンのパラダイム論の説明(当時はまだ知る人ぞ知るという状態)。論の詳細は省略。重要なのは、パラダイム論は相対主義、複数のパラダイムは共存可能、異なるパラダイム間では通訳不可能(話が通じないということ)、パラダイムの選択は個人的・政治的な理由で合理的であることは少ない、あたり。そのうえで、「西洋文明(中略)は一様性志向を特徴としますが、世界の多くの文化は、多様性を認識の中心に据えております。西洋文明の一様性志向は、他の文化によってその存在を認めてもらえるわけですが、西洋文明の方からは、一様性のゆえに他の文化の独自性を認めにくいという非対称的な状況がでてまいります。(中略)西洋型思考は特殊的であって、普遍的なものではありません。(P89)」 で多様性を認めるときには、自分のアイデンティティや他人のアイデンティティの選択や決定に非合理性の介入を認めざるをえない。ここで相対主義や多様性の容認で、科学的思考と合わないところがでてくる。
2018/05/29 トーマス・クーン「科学革命の構造」(みすず書房)-1 1962年
2018/05/31 トーマス・クーン「科学革命の構造」(みすず書房)-2 1962年
2018/06/01 トーマス・クーン「科学革命の構造」(みすず書房)-3 1962年
4合理性に対する反世界 ・・・ ポランニーの「暗黙知」の紹介(当時は(略))。非言語的、身体的な知があって、一次産業従事者、アルチザン、名医などにあるらしい。あるいは、日本の武道とか、禅とかヨガとか。そのような知には「直感」「感性」の世界認識が優位であるようだ。(以下は感想。ここを勘違いすると、「直感」「感性」の皮相で軽薄な知のごときものになってしまう。実際1970年代後半から「感性」優位の言説があふれ出た。くどいけど、暗黙知の次元ではメンターの指導と経験の蓄積が必要なのだ。あと、この種の非合理的思考は、社会的・文化的な違いにあるもの同士では通訳不可能であるのではないかなあ。そこをいっしょくたにするとおかしな議論になるよね。ここらへんは著者には関係ないこと。著者の指摘で面白かったのは「神秘的なことはわれわれのなかにある(P96)」。神秘主義や存在論で同じことがよく言われる。オカルト好きは納得しないだろうけどね)
5科学の「善用と悪用」 ・・・ 科学の制度化に関するちょっと分かりにくい説明。自分なりにまとめると、19世紀以来、権力(資本と国家)は科学を自らに取り込みその維持と拡大に有利なように使ってきた。科学者は研究費獲得のために、権力の政策を承認することになり、個人は政治的でないと思っていても、その活動は権力維持に奉仕するという政治的なものである。市民から見ると、科学は政策の正当性や安全性を繕うイデオロギーとして働いているようにみえ、その専門性のために市民が参加したり意見を述べたりすることができないように働いている。あと科学はさまざま問題を科学の問題にすりかえることができて、政治・経済・社会的な解決を行わせないように働く。なので、「科学は善か悪か」という問いが無効なところに今、いるのだ。科学は単体で、スタンドアローンで存在しているわけではないので。
6「ゆがんだ科学」 ・・・ マルクス主義者による資本主義自由経済下で科学はゆがめられた(だから社会主義政権に体制移行することで科学は健全化する)論の批判。あわせてマルクス主義者による「市民のための科学」は、エリート主義をを克服できないという指摘(エリート主義は科学者と官僚がもっとも知識と経験豊かだから、政策決定は全部彼らに委任せよという考え。市民は無知だから政策決定に関与する必要なし、という反民主主義になるのだ)。あと唯物弁証法批判などもあるけどどうでもいいや。以下は自分の感想で、科学者集団内部で科学批判をおこなっても、権力はそれを見越しているから無力だという議論があるけど、それはちゃうんやない。それだと「目覚めた」闘士(批判のためには失業することもいとわない)だけしか批判ができないわけじゃん。批判する意欲の芽を摘んでしまって、運動を低調にしませんか。批判の方法批判は消耗するだけで、成果なしじゃないの。
7社会の分極と科学の強化 ・・・ 経済成長を必要とする体制下では、世界の格差を拡大し、弱者から搾取する構造を作り出し、科学技術はそれを補強するために使用される。となると、このような不平等と格差をなくすためには、社会体制の根本的変革も必要であるだろう。その一つの方向は、国家を揚期した500人程度の規模のコミューンからなる小集団の集まりである。これは19世紀のアナキズムの幻視(ヴィジョン)。それに著者は賛意を示し、そのような社会においては科学者という特権的な職業はなくなるはずで、だれもが科学者でありだれもが生産者であるようなゼネラリストであるだろう。そこにおいては、伝統社会の暗黙知や身体知が復活し、自然科学の合理主義や実証主義はそれを補強するものになるだろう。
8新しい知の地平 ・・・ 科学は認識の部分性と要素還元主義的性格で権力の側に有利に働き、科学者集団も分業して自己保存的に活動するから、科学のイデオロギー化と神秘化が進行し、管理社会の成立を志向する。ここはまあ、妥当かな。で、そのような科学を変革するには、市民のための科学とかオルタナティブテクノロジーなどの科学内部の変革では不十分であり、社会変革を必要とし、当面その種の先行きを見通す思考方法と運動はマルクス主義のものである。とはいえ、既存の組織と国家はダメだし、上記の科学の抑圧機能をより強化しているから、新しい方向が必要。その際には、「反科学論」で述べたように「荘子」のような東洋思想の「無為」「自然」などの全体知みたいなものを含んでいて、かつ個人は実践と通じて自己変革を遂げていかねばならない、云々。という話。まえがきにあるように旅のさなかに書いたものだから、資料の参照ができなくて不十分、ということになるのだろうけど、どうしても勉強の成果をまとめたという優等生的な答案に思える
この本にもあるように、科学者は自分の専門以外のことになると、意見は皮相で幼稚という指摘がブーメランとなって自分に当てはまるという例になってしまった。最後の章はずいぶんな勉強の成果と思うけど、一生懸命読むようなものではない。頭で考えるまでで、実践を伴っていないのが説得力に欠けるのだな。まあ、このあたりを自覚していたから、のちに雑誌「クライシス」の編集委員に名を連ね、いいだもも・大田竜などと対談集を出したりもする。たぶん著者のなかでは職業としても科学者として科学批判をすることと、社会変革者として科学者を批判することは両立できるという認識をもっていたのではないかしら。でも職業者であることと変革者であることはレーニンを引き合いに出さずとも、どうも両立しがたいらしい。最終章のきしみ、というか不十分さ、どっちつかずさというのはそこらへんに原因があるのではないかなあ。ともあれ、彼もそれを自覚したのか、1980年代以後は、社会変革に考えを向けることはなくなって、「構造主義生物学」の構築のほうに移動する。それは後付けでいうと幸いなことだった。1970年代に依拠していた思想や運動が総崩れになったから。
それに要素還元主義を批判するのはよいとして、どうして神秘主義に傾斜するのかしら。ここでは東洋思想に、ローザクの「意識の進化と神秘主義」だ。のちの「日本人と生物学」ではトンデモ科学に向かう。けっこうアブナい道を歩いてきたのだなあ、と。ちょうどワトソンとかラブロックなどのニューエイジサイエンスの勃興期だった。
どうも著者は、科学批判の中では組織者ないし思想家として評価しないほうがよさそうだ。むしろジャーナリスティックな感覚とさまざま情報を集めてパッチワークする編集の仕事のほうで評価したほうがいいのだろう。自分はこれを読んで、クーンやポランニー、オルタナティブテクノロジーなどを知った。
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