odd_hatchの読書ノート

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柴谷篤弘「私にとって科学批判とは何か」(サイエンスハウス)

 「私にとって科学とは何か」で発生生物学にターゲットを変えた著者。この本では科学批判、自己変革、社会変革をどのように実践するかを考える。あわせて、実践例を提示し、批判を仰ごうという意図の本。

第1部 批判の論理
私にとって「科学批判」とは何か ・・・ 外的には人間がその個体自身にふさわしい生き方ができ、それを社会が許容するような仕組みを作ることであり、内的にはそのような運動を通じて自己発見と自己変革を遂げていくこと、とでもなるのかな。そのときの立場は相対主義で、多元主義で、多様性を許容する寛容な社会であること。科学を批判するのは、科学がそのような寛容さを持たず(たしかに科学からエリート主義を取り除くのはむずかしいな)、抑圧の社会を作るから(いや待て、科学のパトロンの力のほうが多きいのではないか)。で科学者集団の一員である著者の戦略は、科学の論理でもって科学の内部矛盾を明らかにし、外部の科学批判や多様性社会構築の運動を連帯することであるとする。これは、たしかに科学者には届かない主張であるなあ。

私にとって『神聖喜劇』とは何か ・・・ その制度の中の論理を使って制度を批判する例として大西巨人神聖喜劇」を取り上げる。ここではめずらしく著者の学生時代と兵隊時代が語られる。他の本では言及しなかった過去を表現していることに注意。あと、相対主義多元主義を実践するとき、自分の意見に反対する論者に対して「違和感がある」「許せない」とすぐさま拒否したり、レッテル貼りをして型にはまった批判をするのはいけないとのこと。自己の思想や意見に反対であっても、その内部を探ることが上記の内部論理による批判活動の要点。

私にとって「環境史」とは何か ・・・ 中山茂の紹介した「環境史」に関する感想。それとあわせて科学批判や環境保護運動などを行っているものの思想の紹介。うーん、多様性の尊重、相対主義を実践するのはよいとして、だれの実践からも共通認識を得ようとする著者のやりかたは「なんでもあり」になりそう。いいだももマルクス主義批判も大田竜の辺境民族の共感も、土着の人民の暗黙知も全部ごったになって、それこそ「えせ科学」ですら承認する立場になりかねないかなあ、それを自分の実践で乗り越えていくというのは思考の効率が悪くなるだろうし、運動の水準を下げるのでないかい。「違和感」ばかりの残る文章。

私にとって「パラダイム」とは何か ・・・ この国に「パラダイム」概念を導入したものとしての10年間の総括。この時代に「パラダイム」が科学史だけでなく、社会思想史、経済学史、あげくのはてには経営や商品開発にまで使われるようになったという背景がある。自分は「パラダイム」は科学史に限定して使うべきで、それ以外の分野で使われると辟易する。経済学史の変遷をパラダイムで説明するのを読むだけでも勇み足と思う。ましてビジネスで使うのはおかしな話。なので「パラダイムシフト」ということばは読む本を選ぶときのスクリーニングに使っている。クーンに言及しないでこのことばを使っているものは読まない、という具合。

第2部 科学の論理
私にとって「分子生物学」とは何か ・・・ セントラルドグマに反する事実(RNA→DNAの逆転写酵素ミトコンドリアと核のゲノムが異なるなど)が発見されていた時代に、1950年代の「分子生物学革命」をどうみるかという話。

私にとって「遺伝子操作」とは何か ・・・ 1980年代前半に組換えDNA実験指針の緩和が検討されていたときの、この国とオーストリラリアの対応の違いのレポート。著者がそれぞれの公的機関(この国だと文部省:当時)に意見書を提出している。この国では無視され、オーストラリアでは国籍を持っていないにも関わらず審議会の会員になることを要請された。結果は、研究指針は緩和されたが、のちの商品化で厳重な監視が行われることがある。個人的には逆ではないか、研究時の制限を厳しくしたほうが、商品化の承認コストおよび市場に流通した後の監視コストを下げるのではないかと思うのだが、この30年の経緯は逆であったということになる。

第3部 社会の論理
私にとって優生保護法「改正」とは何か ・・・ ヒトの誕生をどこからかと科学的に決めることはできない。それは政治的に決まる(異なる意見の持ち主による議論を経て社会的な合意を得ること。ヒトをどう定義するかと、その決定を実現する社会的コストをどこまで負担するかで、決定は変わる。この国だと「政治的」はどこかの党派の考えの押し付けのようにみえてしまうので、念のため)。「受精の瞬間から」「人工中絶反対」は科学的には決まらず、それはイデオロギー。受精卵のすべてが着床・発育・出産されるわけではない。自然流産も高頻度で発生するのだが、それって殺人罪?、みたいな議論。死の判定も同じであることを自分が付け加えておく。

私にとって「オーストラリア」とは何か ・・・ 遺伝子組換えP4施設建設をめぐるこの国とオーストラリアの違い。科学者間の自由討論、政府による調査会の設置、ジャーナリズムによる報道など。前者になくて、後者にあったこと。

私にとって「生倫理」とは何か ・・・ 生倫理(バイオエシクス)は1970年代に学問領域として認められたが、1983年当時ではまだこの国に入っていない(臓器移植、試験管ベビーなど個別問題としては議論されていた)。そこにおいて、生倫理は科学ないし科学者のみでは決定できないこと、政治的に決まること、そのためには広範な議論の場とそれを政治決定に反映する方法が必要と主張する。科学の論理と科学者のエリート主義に対する批判であるわけだな。

私にとって「日本人論」とは何か ・・・ 「日本人論」に興味を持つのは、自己発見・自己変革を通じての社会変革を実践する際の方法を見つけるために有効(ちょっと超訳気味)。

第4部 防衛の論理
私にとって「戦争」とは何か ・・・ 科学技術(政策)の問題は、本来社会的・政治的問題で市民大衆の意見で決定されるべき問題を、専門的技術の問題にすり替え、少数の科学技術者を掌握することで決定し、市民大衆の政治決定能力を抑えるところにある。あと、核の問題ではそれ自身の脅威の前に民主主義が抑圧される(自由な討論ができない、することを躊躇する)ことにある。この二つの指摘が面白かった。

私にとって「反核」とは何か ・・・ 「反核」運動のミッションは、全面ないし限定核戦争を中止したり核兵器を廃絶したりを国家や国連にお願いすることではなく、核戦争(ないし自然災害など)を口実に民主活動を抑圧したり、官僚支配を強化することができないようにすることにあり、より積極的には国家によるそのような支配が行われないような民間、市民などの防衛体制を作ることにある。そこでは民間や市民による協力体制とかメディアなどが必要になるだろう(大資本の作るそれとは別にね)。という非常にアクチュアリティのある議論。なるほどたしかに、市民支援の体制を用意することは必要であっても、それが自治体である必然性はないよね、というお話だ。

私にとって「防衛」とは何か ・・・ 社会防衛は、国外の権力が自国の権利を侵害したときに市民が行う積極的非暴力レジスタンスのこと。たとえば、ひきこもり・サボタージュストライキ・税金などの不払い・意図的な遅れや間違いやミスなど。チェコポーランドなどで実践例あり。この国の占領時にはなし。とはいえ、ECみたいに民族国家の上位の統治システムができると無効であるかもしれないね。まだわからないけど。

付録 オーストラリアで見かけた文書類 ・・・ 社会防衛に関する文書など

 この本に「違和感」を感じるのは(と書き始めると著者に大目玉を食いそうだが)、
1)科学批判や要素還元主義のために、境界領域の科学や発想を検討・紹介するのはコストがかかることになるのでは。ライアル・ワトソンシェリルドレイクや角田忠信らを引用・紹介するのはどうもねえ。発表当時は「科学」でありえたかもしれないが、検証するコストを研究者が払う必要はない。そこらの線引きとかグレーゾーンに対して、楽観的で素朴でありすぎたのではないかしら。
2)科学批判が自己変革を経て社会変革をするというプログラムは魅力的ではあっても、社会変革のイメージを「革命」とするのは筋がよくない。「科学革命」と「社会革命」を共通する言葉があるからということで結びつけるのは安易ではなかったかな。当時、社会変革のイメージは共産主義者の「革命」だけのように思えていたが、東欧や東南アジア、北アフリカ中南米などの社会変革を経験した今となると「革命」だけが社会を変える方法ではなくなった。それに林達夫のいうように「革命ははた迷惑でないほうがよい」し、なにより混乱が生じるコストも社会の損失も大きい。
3)研究者の科学批判や社会変革の試みを支持する「市民」とか「大衆」とかがいなくなってしまったような。運動の退潮とか、科学の高度化とか、市民の学力低下とか、いろいろ理由はつけられるだろう。ともあれ、柴谷のような社会変革を志向する科学者を受け入れるような組織や市民がいるのかなあ。と。
4)科学者がその職にとどまることが難しくなってこのような考えを持つ余裕がなくなっている。
 科学者が科学批判の行く末に科学者である自分を否定するというのも極端であるし、とはいえ社会に要請されるのが産業向けの開発や調査というのも科学者の役割としては小さいようだし。一方、科学者は体制化されて権限は縮小しているし、テクノクラートが政策の決定権を持っているようでもないようだし、市民は科学者に無関心か嫌悪を示すようだし。となると、科学者は社会(パトロンではなくて、ステークホルダー相手)にどう向き合うかというのは、たとえば大規模な自然災害と社会的なパニックを経験した2011年を起点にして考え直すことになるのだろう。