odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

柴谷篤弘「私にとって科学とは何か」(朝日新聞社)

 1982年刊行。この本の前には「反科学論」1972「あなたにとって科学とは何か」1977、「日本人と生物学」1980「今西進化論批判序説」1980がある。そこに書いたことが前提になっている事に注意。単独で読むことは可能だが、これらに目を通しておくほうがわかりやすい。逆に言うと、同じことの繰り返しと見えるかもしれないが。

分子生物学を越えて ・・・ 分子生物学批判の骨子は「日本人と生物学」と同じ。まあ、1953-63年は分子生物学の革命期であって、それは1)理論先行性、2)目的は生命現象の解読、3)少数者の研究共同体、などが特徴。この革命は特殊生命解読理論は作ったが、一般理論の構築には失敗したというのが著者の考え。そして新しい革命は発生学にありうるとする。すなわち、そこには分子挙動だけでは説明できない現象(紋様形成、尺度普遍性など)があり、それを解読するには新しい理論が必要とされるから。発生学の議論は前掲書の感想に譲るとして、チューリングの反応拡散系とかトムのカタストロフィー論が発生に関係しているかも、という示唆は科学に興味のある文系の琴線に触れるなあ。あと、「あなたにとって科学とは何か」から引き続き「生物機械論」の話題が出てくるが、「機械」がマシンなのかメカなのかは不明。この区別は重要だと思う。

今西進化論再説 ・・・ 「今西進化論批判序説」の続報。新たな意見は、1)棲み分けと同じ考えをダーウィンももっていた(種の変化が緩慢なときは、ニッチを分割する)、2)種の進化とか行動において同種個体の認知が重要(個体が出会ったときに、相手が食えるか/食われるか、無視できるのか、生殖可能か/協同可能かを瞬時に判別できる。それはなぜか、という問題)。あとここには日本の生物学研究者の動向が個人名を持って書かれていて、どういう考え・思想を持っていたかが書かれている。この種の文章はまずないので、科学史を専攻する人たちは必読。中村禎里「日本のルイセンコ論争」(みすず書房)以降を鳥瞰するのに便利。
 重要な指摘は、排外主義や偏狭なナショナリズムが社会の主調になると土着の思想が優遇され、政治的に利用される。1930-40年代ではそれが京都学派だし、そうなる可能性を今西理論はもっている。あと、日本の生態学や動物行動学は1980年代まで海外留学の経験を持たなかった。それは学問の偏狭さを招く失態ではないか、という点。

真核生物のもつ「世界像」を求めて ・・・ 生命現象を研究する仮説として、個体および細胞は空間・時間・個体(他の)・密度を認識する形式を持ち、種ごとの「世界観」をもっているとする。そのような仮説を導入することにより、紋様形成、尺度普遍性、密度効果などの遺伝子ないしDNAの発現という形式からでは解決できない生命現象を科学的に記述することができるであろう。
 この仮説の問題は、今のところ理論的にしか説明することができず、具体的な研究方法を提案することができないこと。生態学、発生学、遺伝学などの広範な領域の研究成果に通じている必要がありそうで、ひとりの研究者で情報を処理しきれるかしら。しかも種ごとの世界観が異なるとする場合、植物と動物、真核生物と原核生物とでは形式が異なる可能性があり、ある生物種で発見できた形式が普遍性をもっているとはいえない。しかも、この種の考えは生気論を持ち出したくなる可能性があり、実際に、ライアル・ワトソンのコンティンジェント・システムやシェレルドレイクの形成的因果律のようなオカルト的な発想が入り込む可能性がある。
 あいにく、この方向の成果は提唱から30年を経過しても出ていないのではないかしら。現在の分子生物学パラダイムと異なるので、研究者は少なく、予算も取れず、応用が難しく、ときにニセ科学と境界と接しているように見えるとなると、あるいは哲学オタクのおしゃべりに堕する可能性もあるとすると、これは困難な道である。