odd_hatchの読書ノート

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柴谷篤弘「反科学論」(みすず書房)

 「生物学の革命」の10年後の「みすず」連載をまとめたもの。ベトナム戦争と大学闘争、公害と環境破壊と資源枯渇が背景になっていて、前著よりもさらにラディカルな問いかけになっている。

I. 序章 ・・・ この本の問題意識は2つ。ひとつは、大学闘争による「科学とは何か」の問いかけに回答すること。もうひとつは、学際的・国際的な学問をするのに適していない現在の大学をいかに変えるかということ。

II. 専門家とその勢力の拡大 ・・・ 科学は社会に大きな変化を及ぼすことを実証してきた。それに伴い、16-18世紀の科学が個人の営みであったのが、資本や国家がパトロンとなる制度化が進んだ(まあ、科学に投資すると、利益が大きく帰るから、積極的に投資したのだ。さらに科学者が高い評価を得ると国家の威信を高めるという効果もあった)。それにより科学者集団と研究方法が変化した。まず、科学の<知>が増えるに従い研究領域が拡大と専門化する。科学者はもはや自己の思想の確認のために研究するのではなく職業になる。その結果、金を出してくれれば、パトロンの政治意見には無関心となり、体制の補完の役割を果たす。研究領域の分化と専門化は科学者の評価を集団内で行うようになり、科学者は科学者集団に対して責任をもち、社会には無関心となる。そして、知識の総量が増える一方、個人のキャパシティには限界があるため、いわゆる「専門バカ」化が進む。研究領域が異なると、言葉が通じなくなるし、さらに社会や政治に対して知識がないのでまともな評価ができない(そのような社会的発言をするとき、研究費獲得と自分の専門領域の権威付けのためにポジショントークになりやすい)。あたりがまとめ。「学問の自由」という概念は、もとは権力は研究やその成果に介入することを拒否するためのものであった(ガリレオやブルーノのケース)が、19世紀以降は所属する科学者集団の維持を目的に利用される、という指摘が面白い。でもって、科学および人間は拡大しつづけることを目的にしたので、いまでは環境破壊が著しく、弱者に対して無力である。そのとき、変革の方向は、1)科学の廃棄、2)専門職業集団としての科学者の廃棄、のいずれかしかないという。

III. 科学の再評価 ・・・ 1972年の論述なので、今の一般的な認識と合わないところがあるので、そこは理解しておかないと。この時代までは「科学は社会のどんな問題も解決できる」という素朴な信仰があった。しかしそれは誤り。1)非線形複雑系(という言葉はまだない)の現象には要素還元主義では対処できない、2)科学は「客観的」というのはあやまり、3)科学は「中立的」というのもあやまり、4)科学は万人の福祉や利益に貢献するというがそれを得たのは少数の権力者や先進国だけ、5)科学者のプレゼンにもかかわらず未達成の課題がある(がん治療とか核エネルギー利用とか)、6)投資に見合うだけの成果を科学が今後も維持できるか疑問、など。なので科学の方法を変える運動もあり、それは「感性」「直感」などを使った「暗黙知」「身体知」(という言葉は使っていない)であるべき。アメリカのニューエイジ運動にも見られる主張に親和的だ。
 以下は個人的な感想。1)は科学内部で克服できるんじゃないの?、2)例にあげられているのは科学者個人であるけど、集団の検討でブラッシュアップされた知識の総体は客観性を担保しているんじゃない?、3)科学者集団は中立的ではないのはその通りだけど、知識の総体や方法はそうでもないんじゃない?、4)と5)はおっしゃるとおり、科学の「エリート主義」は克服さるべき、6)科学者集団とその利益需要者(ステークホルダー)による監査の仕組みはあってもいいかな。「感性」「直感」は確かに大切とは思うけど、メンターの指導と経験の蓄積の重要さを忘れてないかなあ。その重要さを失念したニューエイジサイエンスはけっこうでたらめをいって、ニセ科学を蔓延させているよ。あと、この時代にはクーンの「科学革命」「パラダイム」論はまだ知られていなかったので、詳しい説明がある。

IV. 科学と社会 ・・・ 20世紀半ばくらいまでは科学(と技術)が社会に及ぼす影響がそれほど大きくなかったので、科学者の社会的責任はたいてい「もっと研究(費)を」で済んでいた。それがのっぴきならないようになったのは、1)核エネルギーと公害・環境破壊などで世界が破滅する可能性のでてきたこと、2)社会の倫理や道徳のもとになる世界認識の知識を壊して、それに変わるべき価値体系を提供できないこと、3)多くの科学者が専門分野以外の知識や意見が皮相で幼稚であること、あたり。しかも社会が解決や回答を求める問題に対しては、権力者に都合のよい答えをすることで、信用をなくしていった。さて、そこで科学者の社会的な任務はなにか。いくつか考えられることは、将来起こりうる問題を提起することと、社会から回答を要求される問題に正しく答えることである、将来害悪をなす可能性のある科学の研究を一時停止して社会に回答を要求することなどがあるが、それを実現しているとはいいがたいし、取り組みもまだ浅い。
 ここで実例として挙げられている問題が2000年になってよりリアリティをもっていることに注目。すなわち地球温暖化、核エネルギーの安全性、環境負荷をかけない技術開発など。一方、微量物質のリスク評価や、社会と科学のコミュニケーションなど新しい試みもなされていて、ここの記述に対する取り組みがある。なので、ここに提起されていることは、たぶん別の本で補完したほうがよい。あくまでこの章は当時の問題提起まで。

V. 実践への展望 ・・・ それを受けての改革の展望。海外と日本の科学者運動を見ながらの提案は、1)科学者の集団保証(政府や企業から独立した自主組織)。批判をしたら解雇される恐れがあるとき、あるいはされたときに科学者の生活を保証する組織を組合的に作るのはいかが。そうすると、とくに企業の研究者のように孤立して発言できない人を行動に移す契機になるのでは。2)科学者組織の運営に非専門家を加える。市民運動参加者、初等中等教育者、宗教家などを参加させ、科学活動の方針やあるべき姿、倫理について議論に参加してもらう。官僚や企業トップを入れないのは、彼らが科学政策に関わっているからだろうな。3)科学ジャーナリズムで科学の社会問題を扱い、討論を読者に解放する。当時の科学雑誌というと「科学(岩波書店)」「自然(中央公論社)」「科学朝日(朝日新聞社)」くらいで科学トピックばかり。科学と社会の議論はむしろ総合雑誌(「中央公論」「朝日ジャーナル」など)のほうが詳しい。この転倒を改善しよう。4)科学研究を非専門家に公開。政府や企業などのパトロンの意向で行うだけでなく、市民その他のニーズにこたえるべき。ここまでは科学者集団内部の改善案。あいにく政府や企業など政策立案や予算に関わる科学者集団は取り上げられない。重要な指摘はデータの捏造・論文の盗用など科学の方法の倫理は確立しているが、科学的知識を運用して一般の人びとに役に立つのにどう行動するかに冠する「体制上の倫理」はまだ確立されていないというところ。
 その上で、科学の自由、学問の自由は第三世界や自国の弱者の搾取の結果として成立していると考えるとき、科学者はそのような排除ないし忘却された人びとにどう対処するかを考えなければならないと問題提起する。これを突き詰めると、科学者であることを否定するところまでいくかもしれない。とてば宇井純のように科学者集団のうちで批判活動をするものや、職業科学者であることを辞めた高木仁三郎などがモデルケースになるだろう。

VI. 解放へ ・・・ 前章では、科学の変革を進めると社会や国家の変革にも行くであろう。それが実現したとして、そのうえでなお人間の解放がありうるのではないか。その真髄は「荘子」のような東洋思想の「無為」「自然」などの全体知みたいなものかしら、という話。


 20代前半に読んで非常に感銘を受けたのだった。なので、手元の本には赤線が強い筆圧で書かれている。ときにはいくつかの文章を手書きで書き写したりもしたのだ。大学の講義がこの本に書かれている問題にほとんど答えないものであったので、自分はアカデミズムに背を向けたのだった(違うな、職業科学者になるテーマを自分は持っていなかったからドロップアウトしただけだ)。
 四半世紀ぶりに読み直しての感想。議論にでてくる「科学」が何をさすのかあいまいにしているなあ、科学の知識や方法の総体なのか、科学者集団のことなのか、ステークホルダーのことなのか、そのあたりを区別していない議論が多い。そのために、IIIの拙いツッコミができるような弱さをもっている。それに、科学批判に性急なあまりか「感性と直感」「暗黙知」「身体知」を懐疑的な姿勢なしに科学に取り込もうとしている。科学の方法と異なるこれらの手段を重視すると科学とそうでないものの区別があいまいになってしまう。このような弱点をもっているのはたしか。
 あと科学者の組織化を提案しているところが、科学内部からの科学批判の方法ということになるだろう。著者は20-30代のときに核酸研究会を立ち上げるなど、組織者としても有能であったのだが、著述時は50代前半。本来ならその作業を受け継ぐのは当時の若手研究者であるはずだったが、能力ある組織者はみんな全共闘運動にいってしまって、彼と同調する仲間や弟子を作れなかったのはあいにくなことだった。それにオーストラリア暮らしでこの国にはほとんどいなかったし。もうひとつは、この国の科学者組織は戦後にあったが、共産党の影響が強くて、もっぱらイデオロギー論議と党派活動に費やされた。それに嫌気が差して、組織することを忌避したということもある。1972年当時だと、もっと露骨な党派活動の場になっただろう。そこらへんの事情が、英語圏とこの国の科学者組織の違いになって現れる。
 前著「生物学の革命」は、「もっと研究を!」というわけで、科学者の拡大と科学知識の増大でもって社会に責任を果たせるという考えだった。そこから10年して、社会の変化が起こり(とくに市民とか公害被害者からの告発が重要)、その意見では科学者の責任を全うできないという意識に変わり、ここにあるようなところまで進化・深化した。自然科学者の中でここまで考えている人はこの国では珍しい。

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