雑誌「自然」や「科学」に連載された記事を元にして1960年晩冬に出版された。この本の衝撃の一端は荒俣宏「目玉と脳の大冒険」に記載されている。なにしろ、生物学の目的について大転換を図ろうという目論見があって、その転換の大きさというのは当時の学者には図ることのできないことだったから。
第1部 生物学はどう進むか (生物学のビジョンとミッションに関する新しい提言)
1.これまでの生物学 ・・・ 博物学由来の生物学もパスツール・コッホ以来の生理学・病原学も現象や対象を枚挙すること(「切手蒐集」に謎えている)に汲々。「生命とは何か」を解く事を目標にする生物現象の統一理論構築もはかばかしく進んでいない。いずれも学問の目標設定が誤っていることにある。あるいは未来の生物学のための技術開発をしている。
2.生物の人造 ・・・ 目標を「生物の人造」に変換しよう。この場合の生物は「自己保存・自己増殖的エネルギー転換系」をモデルとする。成果物の形態は問わない。この目標に切り替えたとき、生物学は工学的な学問に変わり、「統一理論構築」という物理学的な知の体系ではなくなる。また、このように変化した生物学は情報理論、数学基礎論、オートマトン理論などこれまで交通のなかった学問分野との共通性が開け、生物学外の理論を積極的に利用できる。(なお、このような生物学では現存の生物を目的にするのではなく、機能の抽象化された形や構造になるといっている。のちの構造主義生物学の萌芽?)
3.分子生物学 ・・・ 1960年の分子生物学の知見で、エネルギー変換、自己保存、自己増殖を説明。重要なのは、これらが分子水準の解読で説明可能であること、人工生命の創造にあたり細胞は重要ではないらしいと示唆される(これは前節と異なり、まさに要素還元主義的な発想で、構造主義生物学とは対立する考え)。
4、ガンと放射線障害 ・・・ 1960年の知見でもってガンと放射線障害について概括する。もう古い情報なので読む必要なし。これらの研究の担い手は医者から分子生物学者になるべきという主張も今は特筆する必要もなし。
5.理論生物学 ・・・ 同じく1960年の知見で生物学とオートマトン理論、サイバネティックス理論などとの関係を説明。古いので読む必要なし。1990年代のM.ミッチェル ワールドロップ「複雑系」(新潮文庫)、吉永良正「「複雑系」とは何か」(講談社現代新書)でもうすこしわかりやすい説明があったとおもう。でもこれらの読書の記憶では、20世紀末でも人工生命の誕生まではまだ遠いなあ、生命モデルの数学的記述というのもまだまだ先、というところにあった。
第2部 (研究者集団に関する議論。)
6.日本の生物学の不振 ・・・ ここでは最新学問に対応できず、研究成果物がよくない原因として学部制(とその背後の講座制)が批判される。いわく生物学が複数の学部に分断、研究と教育の同居、最初に所属した講座が研究者のキャリアを決定する、医学部の研究姿勢の古さ、など。学部制、講座制批判はのちの学園闘争で先鋭化された。改革の試みはあったが挫折した(吉岡斉「科学者は変わるか」(社会思想社))。著者は理学部廃止を主張するが、たぶんそれだけでは不十分であって、文部省(文部科学省)解体、東大の大学院大学化あたりまで踏み込む必要がありそう、などと個人的に妄想するが、この問題は現役の大学関係者の議論を聞くべき。
7.学会の現状 ・・・ 1959年の生物学関係シンポジウムの感想。基礎医学と生物学・化学の研究方法の差異、若い研究者の不遇(核酸シンポジウムに若い利根川進は出席していただろうか)、博物学的な生物学研究者のサロン的雰囲気=競争のない雰囲気、など。利根川進はこの国では研究できないといってアメリカにわたったのだが、それを裏付けるような記述。
8.生物学の教育 ・・・ 生物学は急速に変化しているのに、生物教育は旧来のままで、学生の知的好奇心を満たさないし、将来の優れた研究者を生み出すことができない。とりあえず教科書に問題を絞ると、a.理論化・抽象化されていない、b.現象の枚挙と述語の説明のみ→暗記が勉強の主、c.技術と理論が区別されていない、など。物理学のような体系化され、抽象化された教科書が必要。それは現在の教授たちの反発を生むだろう。ということが1960年に書かれて、1980年の大学教育でも同じであったと回想し、ここの主張に激しく同意。いまはどうなっているのか知らないので、前の文章は昔話の繰り言です。
9.科学者の価値 ・・・ 高度経済成長前のこの国を科学者が見ると、a.人はこの国や人びとを二流・後進とみている(創造的な価値は国内からは生まれないとみなす)、b.この国の科学者に創造性を期待していない(それより西欧から購入すればよい)、c.国内市場だけでやっていける大きさをもっているので外に出る必要を認めない(国外との交通を考慮しない)、など。そのまとめは、頭脳が優れ勤勉でエネルギーにあふれる個人をぬるま湯でふやかしているようなものだということになる(これは後のカレル・ヴォルフレンの指摘に通じるかな)。のちの1980年代に以上の見方は逆転したが、バブル崩壊(よりも後処理のまずさのほうが問題か)のあと再び著者の指摘のような意識にもどったのかも。
10.科学と民主主義 ・・・ この国の大学の自治は教授会の自治とみなされるが、内実を見ると、予算と人事の権限は官庁がもっていて裁量権はなく、構成員に対して馴れ合いになり投資的な予算配分を行えず、外部(学生、市民、警察など)の介入を排除するように働き、組織として無責任である。構成員がどんなに進歩的であっても、経年のうちに沈滞と馴れ合いに陥る。さて、大学のような目的(ヴィジョンとミッション)が明確な組織では民主主義である必要はないと著者は言う。むしろ、民主的な手続きで選ばれたリーダー群が経営するべきで、構成員の評価は実力で図るべきであり、異動の自由を構成員に与えるべきである、という。(このあたりの指摘を1960年代の学園闘争の当事者はすっかり見落としていたのではないかと思った)。
11.生物学者の社会的責任 ・・・ 著者の考えをまとめると、まず科学者が職業としてありえるのは植民地主義・帝国主義などの国内外の搾取によって得られた富の分け前をもらっているから。この職業の原資はそのような収奪の結果であることをしるべし。その金を配分する国家は国内外の搾取や収奪、格差拡大の政策を取ることがある。それに対し、知的エリートの発言として「No」をいっても無駄であるし、研究活動とは別の政治運動に参加することは仕事(研究)の成果物の量と品質を下げることになる。したがって、科学者は科学の現場において反対の意思表明や市民に役立つ科学を行うべき、そこまでいかなくとも「科学の進歩」に参加することが本分なのだ。とはいえ科学の内部にいるとき、10の形式的な「民主主義」によって馴れ合いで腐る可能性もある。それを阻止するのは個人の意識しかない。そのとき「亡命」というのは有効な手段になるかもしれない。すなわち科学の内部にいる(批判者の資格を持つ)が、この国の馴れ合いのシステムからは外れるというやりかた。以上はすなわち後の著者の生き方を予言するものであった。この主張では「科学者の社会的責任」が知的エリートの立場でなされるのではなく、国家や企業にひも付きの職業家=サラリーマンの立場であるところがあたらしい。とはいえ、この本では「科学の進歩」に全幅の信頼を寄せる、ないし未検討であるので、そこは批判を受けそうなところ。吉岡斉は「科学者は変わるか」で検討している。
付録 もっと動的な思考を ・・・ 以上の連載が終わった後の批判に対する反論。面白かったのは、論争を巻き起こすことを目的に挑発的に、あるいは極端な議論をひいた。反応のおきた層が幅広かったのでそれは成功。ときに大学生と高校生に賛同があったのがよかった、だって。当時の進んだ高校生は「科学」「自然」を読んでいたんだ(すごいだろ、と続けようとしたが、今だってプログラミングの専門書を読んでいる高校生は少なくないよな)。あと著者にとっては、進歩・効率・動的思考が重要。これを繰り返し書く。
荒俣宏(「目玉と脳の冒険」)は第1部に反応し、吉岡斉(「科学者は変わるか」)は第2部11章を重要視した。それは彼らの関心領域がそこに集約されているから。自分は四半世紀を企業に勤めてきたので第2部10章のところが面白かった。なるほど学部制と教授会を解体し、創造的な研究を強力に推し進め、科学の進歩に寄与しようというのは、企業のあり方とにている(あるいはアメリカの私立大学)。というか、ほぼ同時期に書かれたドラッカーの主張にきわめて近しいのではないかな。それこそこの本は「もしも生物学者がドラッカーを読んだら」でありえたかも。重要なのは、ドラッカーの主張も柴谷も主張も独自のところで作られ、相互影響していないこと。ここは注意しておいて。
さて、とりあえず公立大学の経営は、この本に書かれたものに近いものになったようだけど、その成果はどうなのかしら。まああと10年を経過しないと判断は難しいかな。個人的には大学や公立研究所の予算と人事が官僚のひも付きになっている間は、柴谷の理想には程遠いだろうと思う。
前半の生物学のビジョンとミッションに関する提言は、のちの彼の考えには継承されていない(はず)。生命の人造と構造主義生物学にどのくらいの共通点があるのかしら。
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