odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

吉岡斉「科学者は変わるか」(社会思想社)

 この本は著者の第2作にあたり1984年に刊行された。当時和歌山大学講師であったが、31歳。浅田彰「構造と力」の26歳にもびっくりしたが、この著者の年齢にも驚いた。まあ、なんとたくさんの本を読んでいること、それにびしびしと評価を与え、明晰な論理を展開していくこと(そのかわりあまりに展開が早いので、自分は消化しきれないままになってしまった)。この本でもとても中身の濃い議論が進められるので、充分注意深く読むことが要求された。廣重徹、中山茂を後継してこの国の科学(社会)史を展開していくのだろうと思って、この人には興味を持っていた(でもすみません、他のことに興味を奪われて、2冊しか読まなかった)。中山茂「科学技術の戦後史」(岩波新書)で科学技術の日本型モデルを提唱しているが、そのアイデアには著者も参加しているはずなのだ。最近知ったところでは、科学社会史からこの国の原子力発電の社会史、研究史に移ったということで、ちょっと残念。2011年現在で九州大学副学長にあるということだが、自分にとっては少壮科学史家という位置づけ(いかに自分が時代から取り残されているかがよくわかる)。
 本は絶版だし、自分がこの内容を十分に咀嚼できないところもあるので、紹介をかねてここでは本の要約をまとめることに徹する。

科学者の社会的責任 ・・・ この章は難解だった。なので、超訳することにする。まず「科学者の社会的責任」という思想が生まれるためには、科学が社会で制度化されていることが必要(科学研究に国とか企業がカネを出し、研究方針に口を出し、次代の研究者を養成する組織がある、民衆・市民・人民がそのような仕組みがあり税金や商品代金が科学研究に使われることを容認する、など)。「社会的責任」思想の根底は科学の地位向上運動(上記の制度化がきちんと運営される、職業として尊敬を受ける、政策に助言や提言を出す資格をもつ、など)である。しかし、科学の成果を社会に評価されることは拒否する。こういう社会的な無責任な職業であることを社会に要求するという奇妙な集団。科学の中立性とか知識のイデオロギー的中立性、研究室の聖域要求、人類への貢献などは、上記の要求と無責任を実現するための屁理屈。しかも、企業の製造物責任にあたるような罰則規定は「科学者の社会的責任」にない。科学はこれまで社会的にインパクトのある発見、発明、提言をしてきたために、ますます「責任」を取ることが困難になっている。科学のこれまでの実害(原爆投下、公害、遺伝子操作など)を考えると、厳しい倫理規範が要求されるが、ごく一般的な人が科学者になることができ(制度化されたことにとよる)、むしろパズル解きに熱中する人間がエリート意識を持って科学を推進するようになっている。【だから科学の外部からの批判が科学者に向けられるべき】

科学主義 ・・・ 科学主義をハイエクの議論で定義すると、科学以外の分野で自然科学の方法が適用できるという考え。この考えの及ぶ範囲は、人によってさまざまであるが、学問の方法論までとする立場と制度までを科学的にするという立場とがある。1930年代の科学主義の主張者のひとりはJ.D.バナールで彼はマルクス主義思想の影響下にあり、科学は資本のもとでは非能率的な発展しかできず資本の利益のために科学は収奪される、理想的な科学は社会主義のもとでのみ可能。そこにおいては科学は人民とともに展開され、彼らを指導する位置を占めるだろう、というもの。一方、マイケル・ポランニーは反対し、科学はそれ自身で価値があり(政治やイデオロギーなど外部の評価は不当というのかな)、科学者集団の自治によって保証される(だから政治やイデオロギーとは無関係であれ)と主張する。戦後のこの国の科学者のうち、バナールのような考えを持つものたちが民主科学者協会を設立した。これは、共産党の政治的引き回しとレッド・パージによって衰退し、1960年ごろには解体する。彼らには、のちの全共闘運動のような反アカデミズム、反知性主義の考えはなかった。

科学主義の思想家たち ・・・ 科学主義のひとつとして科学的民主主義というのがある。科学は民主主義の確立に貢献するべきものであるということと、科学研究は民主的に運営されなければならないという主張。この主張の代表者として小倉金之助坂田昌一武谷三男が取り上げられる。個々の思想はもういいや。ポイントは一見彼らの正当と思える主張にも問題がある。民主主義というときその定義があいまいであること、とくに研究費は税金や企業の研究費を使うことになるが、その配分には興味があっても金の出所について無関心になりやすい。また民主的な運営は科学者集団のインサイダーには適用するが、その外部(政治家、官僚、民衆・市民)の参加や評価は嫌うこと。こういう「民主的な科学者」が学生闘争排除のために機動隊・警官導入を決議した理由がよくわからなかったけど、この説明で少しは理解できる気がする。要は研究者の特権を奪われることに対する敵対行動であったわけだな。
(ここでは武谷の「許容論」が批判される。武谷は放射能などの許容量は生物学的に決まるのではなく、コストとベネフィットを評価することによる社会的に決まる値であるとする。自然放射線と人工放射線を区別しない御用学者や発電所の論理を切り崩すには有効であるが、議論の背景を切り離して一般化すると、住民が金で解決することに同意すれば住民の心身を蝕む値にすることも許容されるというカネの論理と区別できなくなるという。カネの論理と区別するためには「コストとベネフィット」とか「社会」とか「決まる」に関する細かい規定を入れないといけないということかしら。)

核兵器と科学者 ・・・ 戦時中の核兵器の開発はアメリカ、ドイツ、日本で行われた。共通点は政府と軍部の指導でプロジェクトが行われたことで、違いは科学者の参加意識であった。この国では当時の研究と産業の水準では原爆の開発が不可能なことを知りながら研究者はプロジェクトに参加し、別の目的(若手研究者の徴兵阻止)のマヌーバーに使われた。またマンハッタン計画において、亡命科学者の主導権が強かったとか、実際の投下にあたり科学者の反対があったといわれるが、いずれも誇張されている。戦後、高名な科学者の主導で核兵器反対の運動がおきた。これは科学者が社会的な影響力を示した珍しい事例である。ここでは原理核研究と核兵器廃絶運動の両方を行った科学者として、坂田昌一湯川秀樹朝永振一郎の思想が取り上げられる。

体制化された科学 ・・・ 科学的民主主義では、科学の方法が社会にも適用されるようになることを目的とし、国の社会体制が民主主義になったときに科学者は指導的役割を果たすとされる。それに対し、廣重徹は「体制化された科学」という概念を持ち出す。すなわち権力やエスタブリッシュメントが科学を取り込んで、特定の階層や集団のために使役するような仕組みに科学者が組み込まれ、研究費でも研究テーマでも科学者の意のままにならない、むしろ失職することを恐れて権力やエスタブリッシュメントの利益になるように振舞う。そこでは民衆、市民、人民などの利益や要求は無視されることもある。1950年以降のこの国の科学は以上のような「体制化された科学」である。この論文はのちに岩波現代新書版の廣重徹「科学の社会史」の解説としてほぼそのまま掲載された。廣重徹論としての完成度は高い。まあ、自分の不満は廣重の仕事を受けて「科学の社会史」の1990年以降を読むことだが、それは中山茂も吉岡斉も行っていないようで残念ということ(たぶん自分が知らないだけだと思うが、思いたいが)。あとこの論文がでて20年以上経過すると、廣重徹らの仕事で批判されつくされたと思う科学的民主主義は復活しているのではないかという恐れがある。科学者の側がその仕事の中身を科学者の外部から批判されないということと、批判機能を期待される民衆、市民、人民の側の科学を理解する力、批判する力が失われていると思うから。

科学の党派性 ・・・ 党派的な知とは特定の集団の価値や利害にかない、他の集団の価値や利害に反する知のこと。科学の知は中立的であると思われるが、知の生産過程(研究費の出所とか研究者集団がどこに所属するかとか)や流通過程(社会に広がるメカニズムとかそれが果たしている社会的機能とか)を考えると、「党派的」である。上記の「体制化された科学」を参考のこと。アメリカでは軍の出資する研究費が非常に大きいので科学の知の党派性は見えやすいが、省庁や財団を経由して分配されるこの国では党派性は見えにくいかも。「知の党派性」を批判した運動、個人として4つを上げる。(1)全共闘運動・・・この運動のスローガンである「自己否定」は、科学者ないしエリートであることが科学の党派性に巻き込まれ、他の集団の価値や利害を損なう活動に加担することを辞めるないし克服するという問題提起だった。この考えは具体的な科学のあり方、研究体制、組織運営、民衆・市民・人民との共闘関係などを建設することに向かわず、運動に参加する個人の倫理の問題として扱われた。(2)プロジェ同人、(3)柴谷篤弘・・・もともとは科学的民主主義のラディカルな論者であった(生物学の革命)が、科学の党派性を批判する方法に変わり(反科学論あなたにとって科学とは何か)、この国にクーンの「パラダイム」論を紹介する役割を果たした。彼の方法は科学の内部にとどまり、科学の理論を使って科学批判を行うというもの、(4)高木仁三郎・・・プロジェ同人と同様に科学の党派性を批判するために、職業科学者であることをやめ、市民運動を行うようになった。1984年当時には(1)を除いた個人は健在でそれぞれ独自の運動を進めていた。ここには(3)と(4)を同時に行うような宇井純中西準子(当時二人とも東大工学部助手)は漏れている。