odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」(ハヤカワ文庫) 小説そのものがソラリスの〈海〉のように読者である自分のトラウマを引き出す。

 惑星ソラリスは発見されてから数百年がたっているが、地球人の研究を頑強に拒んでいる。二つの恒星を周回する惑星であり、通常は軌道は安定しないのだが、この惑星は安定した軌道を持っている。それはどうやら、惑星全体を占める海のためであるらしい。地球型の単体の生物はいない。しかし、軌道にまで影響を及ぼすとなると、この海は一つの生物かもしれないし、群体であるのかもしれない。ここに注目されてから、地球はプロジェクト研究を開始したが、何一つ確定的なことがいえない。それは<海>は同じ反応を示すことがなく、できごとの再現性がないから。いくつもの学説が百花繚乱状態のまま、地球人は諦めに近い感情をもつようになっている。中空に浮かぶ研究施設も巨大なわりに今では4名体制まで縮小されている。というような惑星ソラリス学の文献、歴史、学説がなんども語られる。架空の惑星の架空の学説史というのは魅力的な読み物。

 さて、ここにケルゼンという心理学者が送られた。奇妙なことに出迎えはないし、先住の研究者は彼に会おうとしないし、個室に呼び寄せることもない。荒れた状況の研究施設に異変が起きる。すなわち、ケルゼンの昔の恋人ハリーが現れたのだ。彼女が本人でないことは、脱げないワンピースを着ていることで明らか。本人も自分がまがいもの、模造品であることを自覚している。しかし、彼女の姿、顔、口調、その他は以前の恋人そのもの(地球にいたハリーはケルゼンとのいさかいで服毒自殺をしていたのだ)。このシチュエーションにはぐっと引き込まれた。かつての恋人、失恋した相手が今でも生きていて、再び現れることを願わないものがいないだろうか(俺は強烈に求める)。そのような心に隠した願望というか欲望を具現化されるという喜び。その一方で、彼女は「まがいもの」(ちょっときつい言い方だな、シミュラクラあたり)であることを知っているので自分の欲望は十全になかうわけではないので拒否しなければならない。この種の欲望と未練と諦めと怒りとがないまぜになるバランスを欠いた状況に陥る。なので、このあとケルゼンの煩悶とかハリーのためらいなど、この二人の「恋」の行く末は気になって仕方ない。最終章で、ケルゼンは一人で研究施設をでてソラリスの海にたたずむ(このとき<海>は建築物のような固体化した姿をしているところがあったのだ)。ここの超然としたたたずまいと諦念みたいなものは心に沁みる。
 作者の序文もあってたいてい小説「ソラリス」は<海>という他者を拒む異界とのコミュニケーションの不可能について語られるのだが、それはもうひとつのケルゼンとハリーの物語を無視したもったいない読み方。ここでも、ケルゼンとハリーの間には交通の不可能性が起きている。ケルゼンはかつて振った記憶のためにすなおになれないし、なにより過去の失敗に悔いているのだし、「ソラリス」に現れたハリーは自分のアイデンティティに自信をもっていないので、すれ違いばかり。このような人間の心理においても、交通は、コミュニケーションは不可能であるのだよ、といっているみたいだ。<海>はそういう不可能性のシンボルかもしれない。(オタク向けに言うと、ケルゼンとハリーの関係は、「新世紀エヴァンゲリオン」のシンジとレイの関係にそっくり。ついでにソラリスの<海>は使徒とかLCLかもしれない。)
 なので、自分は「白鯨」を思い出した。モビィ・ディックとソラリスの<海>は圧倒的な存在感があるのに、それは意味を持っていないようでいて、人が勝手に押し付ける意味を拒否し続けるものであるような。そういう大状況の下に、ケルゼンとハリーの小状況が大状況と鏡写しのようになっている、と。ただ、ソラリスの研究施設にはエイハブのような大状況と小状況を無理やりつなぐような人物がいない分、研究者たちが壊れていく(なにしろ自分のトラウマになっている過去の体験が、人の形になって現れ、自分にはコントロールできないのだから)ところの描写はもっとあってほしかったなあ。欠点があるとすると、この小説は短すぎること。それから小説そのものがソラリスの<海>のように読者である自分のトラウマを引き出してしまい、何度も古い写真を眺めることになってしまったこと。こういうふうに読者の感情を自在に揺さぶることからもこれはもう傑作というしかない。ただ、ふつういわれるのとは違って作者のほかの作品とは傾向の異なる異色作、ということに気をつけて。あと、これは若いときに読むと、ケルゼンの苦悩とか煩悶とかに共感をもてない気がする(18歳で読んだときはつまらなかった)。なので、失恋から10年という記憶をもつような中年以降で読むとよい。初出は1961年。

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