odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アレクセイ・パンシン「成長の儀式」(ハヤカワポケットSF)

 アレクセイ・パンシンの「成長の儀式」(ハヤカワポケットSF)の舞台は、星間飛行をする宇宙船だ。地球は西暦二〇〇〇年頃に人口爆発とそれによる国家戦争で滅んでしまっている。人類はそれまでに開発していた二百あまりの殖民惑星と一六〇機の星間宇宙船<船>(小惑星をくりぬき、数十万人が暮らしている)に住んでいるのだ。殖民惑星は、資源開発のために作られたものなので、知識技術に不足していて、発展の可能性が限られている。一方、宇宙船は地球の知識を補完したデータベースを持っていて、殖民惑星に知識や技術を切り売りしながら、資源を確保している。殖民惑星の人たちは宇宙船の連中を憎悪しており、宇宙船のクルーは惑星の人間を蔑視している。そういう関係が続いていた。

 人口戦争から百六十年たったころ、<船>で少女マイアが生まれる。そこでは、十四歳に達すると、<船>に敵意を持つ殖民惑星に三十日間置き去りにされる。そこに降りかかる危険を乗り越えたものだけが、一人前の成員として<船>に迎え入れられる。宇宙船でのサバイバル訓練ののちに、すでに一〇〇年以上交易のない惑星にマイアたちは下ろされる。そこには、かれらに敵意をもつ住民が、<船>への反乱を準備していた。さて彼女はどうなるのか。
 「成長の儀式」は民族学の用語で、子供たちがある一定以上の年齢になったとき、共同体の成員になるために一定の試練を乗り越えることをいう。良く知られているのは、ニューギニアバンジージャンプや、アフリカのある種族の割礼であるだろう。あるいは、槍一本を持って猛獣のいるサバンナで暮らすことなどもある。この国にもそういう試練あるいは儀式はあったものだ。今、われわれが生きている社会には、制度としての「成長の儀式」というものはない。しかし、子供から大人に変わるときに、なにかの一定の手続きを踏むことはまったく不要であることはないだろう。僕は、少なくとも今の自分が未熟でしっかりした判断ができるとはいうことができない。そういう資質が欲しいと思うので、僕は自分のための「成長の儀式」をみいださなければならないだろう。
 そういう視点を読んだときに興味深かったのは、主人公マイアはいつも同じ年齢のメンバーと一緒に行動しているということだ、冒頭の子供たちとの遊びの場面にしろ、気難しそうな賢者との少人数教育と受けるときにも、サバイバル訓練のときにも、幼馴染の連中といっしょにいる。同年齢の集まりであることは、互いに共通点を見出しやすく、簡単に団結心が生まれてくるという利点がある。そして相互に影響しあうので、そのグループのリーダーの資質が全員のものになりやすいのだ。これは、昨年まで僕が体育会系の高校クラブ活動で経験してきたことと一致する。僕らは、共通の問題あるいは苦労に対し、似たような感情を持って取り組んでいたのだった。
 ただ、こういう同年齢だけのグループは意見が同一化しやすく、状況に流されやすいこともありえる。マイアたちのグループはしっかりした大人の監督者がいて、若い者たちのしっかりと考えていない行動を規制することができた。それは、まるで「学校」の理想的なあり方を示しているようだ。でも、と僕が思うのは、マイアたちは監督者の指導や忠告をなぞることによって、擬似的な試練を克服していくのだけれど、そのことによって彼らの自立を妨げることになるのではないか。マイアたちが危険に遭遇したときに適切な判断をして、それは自立のようには見えるのだが、結局は監督者たち大人の監視下あるいはすでに用意された選択肢のなかでの自由ではないのか。
 だからマイアたちが経験する「成長の儀式」もまた、その激しさ(三分の二だけしか<船>に帰還できなかった)にもかかわらずお膳立てされた「冒険」のように思えてしまったのだ。
 おそらく不足しているのは、年齢や立場や職業の異なるものたちとの出会いであるのだろう。そのような者たちとの交流では、意見が一つに収斂するようなことがなく、まったく一致できないにもかかわらずどこかで妥協し、しかも互いに不満を持つ状態でいながらも、協力することが必要になってくるのだから。この小説に出てくる「大人」たちは物分りがよいか、悪人であるかで、意見が対立することがなかったのだ。マイアの真の「成長の儀式」は、意見がまったく合わず、しかも生活様式も異なる<船>の外に住む者たちと「出会う」時ではないかと思う。残念ながら物語は、その可能性を閉ざすところで終わってしまった。作者はマイアのような考えの持ち主を「ニュータイプ」に描きたかったのだろうが、そうはならなかった。