舞台は2010から2020年代と思われる東京とその近郊。少し異なるのは、1990年ころに全面核戦争が起こり、かつエイズが蔓延し、人類絶滅が予想されていた。各国はスターシップ計画を発動、惑星間航行宇宙船を建造し「新しい地球」に移住することになる。搭乗員は各国、各分野の第一人者。彼らは「選ばれた人」といわれる。スターシップの出発の後、地球に残された「落ちこぼれ」は最初こそ暴動、略奪を行っていたものの、次第に落ち着いた生活に戻る(「選ばれた人」に対するコンプレックスは強いものの)。大きな力を発揮したのは、20世紀の大量生産・分業・計画・中央集権的生産方法をやめ、各工場をさらに小さくして、ほぼ一人=一工場の「器用仕事(プリコラージュ)」生産方式に変えたこと。また小さなコミューンが作られ、自給自足の体制もできていた(そのときたぶん「国家」の規模が小さくなっていたはず)。軽井沢にあるコミューンのひとつには老人になったヒカリさんが住んでいる。スターシップ計画から10年後、「新しい地球」に向かった「選ばれた人」は突如、ほぼ全員が戻ってきた。過酷な環境で人類の生存はできないと判断したため。彼らは帰還後、「落ちこぼれ」とは一定の距離を保ちつつ、彼らを指導していく立場をとる。彼らの目指すのは、生産力を常に高め続ける成長経済を復活すること。しかし、その思想と方法に「落ちこぼれ」は批判的である。
このような大状況を背景にして、中状況は「リッチャン」と呼ばれる若い女性の一人称で語られる。彼女にはスターシップ計画の責任者と「落ちこぼれ」の指導者という性格の異なる二人の伯父がいた。彼らが母(リッチャンにとって「祖母」)に報告するごとに情報が伝えられる。このように世情をよく知る人物を中心にすえて、そこに「選ばれた人」エリートから「残留者」大衆に降りていこうとする知識人を置き、二人の間にロマンスを設ける。彼らの結婚には障害があって(「残留者」は放射能汚染とエイズ罹患の疑いがあるから)、ちょっとした「ロミオとジュリエット」が演じられる。彼らを助けるのは、「残留者」、そのなかでも中央集権体制に背をそむけ、地下運動やコミューンを行っている人たち。こういう多くの人物たちが表面上おっとりとのんびりとそれぞれの生活をしていながら、時に応じてはすばやい行動を起こす(高齢で椅子に座った生活を送る祖母が公社責任者=自分の息子にレーザー銃を向けて監視したり)。
そうした日常のことどもの後ろ側には「新しい地球」の「治療塔」なる人知では解読できない施設の意味を巡る考察が語られる。1986年のスペースシャトル・チャレンジャー号の事故=爆発は人間が宇宙にでてはならないという何かの意思の表れではないか、「治療塔」は過去の知的生命の遺産であって宇宙の最後の知的生物=人間に対する警告もふくまれているのではないか、などなど。こういう「2001年宇宙の旅」に似た発想が、通常のSFとは逆の結論に向かっていて、たぶん作者のペシミズムなんかを読み取れる。自分にはよくある「トンデモ科学」「疑似学問」のように思えて、納得しがたいものではあったのだが。(それ以外にも経済成長への反発、分業生産に対する反抗、共同体志向なんかもペシミズムのものの見方だと思う)
たいていは失敗したSFというように読まれるのだが(作者の資質から言えば、SFガジェットを自在に使いこなすことはできないだろう)、自分にはこの状況や歴史設定が戦後日本の状況を模したものにみえる。だからこれは、戦後文学への作者の返答なのだと思う。昭和20から30年代なかばころまでの日本の状況を全体として掬い取り、その政治や経済などを批判的に見直し、別の戦後がありえたのではないかという提起なのだろう。たとえば、もう一つの地球にいた堀田善衛や武田泰淳、埴谷雄高などが書いたかもしれない戦後文学としてこれは構想されたのだろう。