odd_hatchの読書ノート

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アレクサンドル・ソルジェニーツィン「ガン病棟 上」(新潮文庫)

 ソルジェニーツィンは1918年コーカサス地方の都市で生まれる。学生時代から短編を書いていたというが、1939年に召集され砲兵隊に入隊。以後、各地を転戦。1945年ベルリン侵攻中に、逮捕され、モスクワに戻される。以後8年間の収容所(ラーゲリ)生活を送る。1953年に刑期終了。カザフ共和国に追放(この小説にあるように、囚人は刑期満了後は故郷やロシア国内に戻れない追放令を受ける)。スターリン死後、この追放令は廃止され、中部ロシアの都市に帰還し、中学教師になる。小説書きを開始。最初に認められたのは「イワン・デニーソヴィチの一日」1962年。「ガン病棟」は1963-67年に書かれたが、発表が断られた。スターリン死後の「雪どけ」で自由な表現が可能になったかにみえたが、揺れ戻しがあって、彼のほとんどの小説が国内で出版されない。そのコピーが海外に流れ、西洋各国でロシア語版と翻訳版がでて、名声が高まる。1970年にノーベル文学賞を受賞するも、出席できず。以後、国外追放、市民権はく奪、逮捕など流転の人生を送る。この時期、ソ連による人権侵害の例としてソルジェニーツィンとサハロフ(と彼らを支援したチェリスト、ムスティスラフ・・ロストロポーヴィチ夫妻)の動向がさまざまに報道された。国外追放後はアメリカに移住。

 「ガン病棟」は1955年2月初旬(上巻)と同年3月上旬(下巻)を時代にする。これはスターリンの没後2年。すでに1953年12月ベリア銃殺、1955年マレンコフ辞任(あと最高裁判事の全員更迭があったと作中で延べられる)のあと。翌年にフレシチョフノの「スターリン批判」演説がある。とりあえずこれくらいの背景があることを確認しておこう。
 というのは、この小説は2とおりの読み方が可能であって、ひとつは20世紀の「死の家の記録」として読むやりかた。これは小説の大状況に注目する読み方だ。すなわち、作家の代弁者と思しき35歳のガン患者オレーク・コストグロートフの身上にあるように、収容所に関係する人々がこのガン専門の病院に集まっている。オレークは上記の作者の半生とほぼ重なり、戦車兵として「大祖国戦争」に参加するも、ベルリン攻略後逮捕されて8年間の収容所生活を送る。この病院で雑役婦をする40代のドイツ系の婦人エリーザベト・アナトーリヴナは、1935年に夫とともに逮捕され、そのまま生き別れている。オレークと同じように追放指令のために高等教育を受けていながらも、低給で不安定な仕事にしかつけない。夫や娘を探しているも、もちろん見つからず、40代前半でありながら60代に見える風貌に疲れている。レフ・レオニードヴィチという中年男性の医師は収容所付きの医師として4年間勤務していた。パーヴェル・ニコラーエヴィチ・ルサノフは逆に小スターリンともいえる尊大で無能な小官吏(ドスト氏やゴーゴリ以来の類型的・典型的人物だ)で、数多くの市民、労働者を告発し逮捕させた(いまではスターリン死後の急変におびえている)。シェルビンという老人患者は、ルサノフのような官吏が指導する労働組合の下にいた労働者。くるくる変わる指導を忠実に守り、ノルマを達成し、友人・知人を密告して、生きながらえてきた。彼はオレークを前にして、自分の半生を振り返る。いわく、恐怖におびえ、暴力に沈黙し、指導者の恫喝に協賛してきた。それは市場のイドラ(@フランシス・ベーコン)にとらわれてきたことの現れ。そして今、ガンで余命のないときに存在の意味、人生の価値を探すことに集中する。
 こんな具合に収容所が描かれる。収容所体験は、独特の隠語を生み、人の見分けのつくようになっているらしい。オレークは時に、その種の隠語を使うことによって(「歌と笑いの天国に行ってきた」「99人が泣き1人が笑う所」など)、収容所体験を伝える。この収容所体験についてはいずれ読むだろう「収容所群島」でもって考えることにしよう。
 とりあえずは、収容所のメタファーがガン病院と動物園にあることに注意しておこう。共通点は、理由なく束縛が個人(個体)に強制され、無期限に収容されるというところ。もうひとつは、あらゆる階層が集められ、階級やステイタスの価値がはぎとられること。プライバシーがなく、尊厳を失わせるような行為が行われること、あたり。

「日常的な関係、恒久的と見えた人間関係は、数日どころか、数時間のうちにこわれ、損なわれてしまった。(下巻P230)」

 これはオレークの退院時の述懐だけど、入院するときでもいっしょ。このような損壊があるのが収容所であり、病棟。
 まあ、以上はメタフォリックな類似であって、病院システムが収容所そのものであると考えるのは間違いなので念を押しておく。この小説は現代医療の忌避を主題にしていないからね。そうではなくて、収容所に象徴される監視と権威の社会の病理を似たような環境の病院を舞台に描いたことが重要。

  

2013/11/19 アレクサンドル・ソルジェニーツィン「ガン病棟 下」(新潮文庫)