「遠矢東吉」が物語の中に突然放り出される。彼は出生の親を知らない。誰かが引き取り、「祖母」と暮らしたのだが、5歳の時、盗癖の収まらない東吉をいさめた後、縊死をとげた。東吉は祖母の足に抱き着いたのが、それが死を早めたのではないかという負い目がある。祖母が残した水心子の懐剣は鈍い光を放ちつつ、彼の視線を離さない。
30歳になって弁護士の資格を得たものの何もしていない。酒場Zに入りびたり、クラスメートだった高津と酒を傾けつつ「俺は余計者」「厄介者」とこぼす。しかし、死んだ父の友人である五ツ木弁護士から村越汽船の新規事業の顧問になることを依頼されたところから話が転がりだす。この転がりがまた奇妙で、東吉は何もしていないのに、村越の秘書がいいよるわ、大学のクラスメートが彼の前に現れては新しい事件を知らせ、別の事件の関係者はすでに知っているものの係累か友人という具合。ここには「ご都合主義」などはなく、人はどんな他人とも関係を持っているという約束事の小説世界なのである。したがって、だれにも関係しない独立した人物などなく、登場する人物およそ50人の関係図を書いておかないと、誰と誰が共通の知り合いないし敵同士であり、誰と誰が親戚ないし親子関係であるのかわからない。
人物名にしろ彼らの思惑にしろ、彼らの会話の語彙というのは20世紀の半ば以前のものであるのだが、一方にアジアの民族技能の組織化や東南アジアからの難民流出という事態は小説の連載された1980年代前半をなぞっている(単行本化は1984年)。とりあえずは、村崎財閥の育英会構想とかアジア連帯のシンボルとして巨大客船建築などのプロジェクトの進み具合と、登場人物のいくつもの恋愛関係の行く末に加え、東吉の心の空白が埋まるかなどが語られる。どうにもこの小説の不思議なのは、多様の人物の登場するものの外見と内面の一致しないものはいなくて、だれもが心の奥底(そんなものはないんだろうな)を口にして、うそつきなどはいない。要するに書かれていることだけがすべてであって、作者が隠していることなど何もない。ミステリとかサスペンスとか思想などのジャンル小説には当てはまらないのである。
物語は各種の恋の行く末を語る。村越は東吉の焦がれる房子と結婚し、それは盛大な船上結婚式となるであろう。従妹にあたる友代はマネージャーをコキュにする奔放な「結婚」生活をするであろう。野性の瀬戸は大恋愛を物にし、音楽家志望の高校生は筆降ろしした芸者に惚れられるのであるし、歌舞伎研究のアメリカ人は女形の歌舞伎役者と遠からぬ仲になるのであるし、すでに結婚しているマーケットの社長は家族サービスにいそしみつつ家業を拡大するのであろう。取り残されるのは東吉のみであったとしても、房子との一夜は長年の妄執を解消するに足る夢をみることになる。すなわち、逃げる先を横にするのではなく、縦にし、上から眺めてみたとき、祖母の足にすがりつく子供はもちろん祖母を愛したが故の行為であり、新しい愛の相手・房子の足にすがりつくとき、過去と現在の行為は同じ意味を持つのである。なるほど過去のとらわれから解放されるには、上昇しろということか。
題名の「天門」というのは物語のほぼ終わりまで分からなかったのだが、村越が起草し、建築家・桂の構想した塔を思えばすなわち主題そのものであるのである。現実の世の満足は塔をこしらえることかも知れず、しかし作り終え上り詰めた先の塔には天空の青空しかのぞかず、そうすると桂のいうように鶴にでも乗って天を掛けめぐるのがつぎの行為となるであろう。そこには当然意味なぞなく、単に飛ぶのみである。そうしてみると、東吉の塔は祖母であり房子であるとすると、その先にあるのは飛翔すること。そこまでいけば内省は不要となる。そこで彼は、毎夜したためていた手帖を捨て、アジアの大地と大海に漕ぎ出でていくのであり、物語からも放りでなければならない。おおよそは東吉の「私とは何か」を探求する物語とも見えるのであるが、物語の果てで見出すものは「自我」でも「社会的人間」でも、ええい観念に還元できるなにごとかではない。とすると、これはゲーテやマンの教養小説ではまったくないのだ。
読者であるわれわれには秘書・組子同様、水心子の懐剣かこの書物のみが形見として残され、いまだ飛翔することかなわないうちは、何度もあけて眺めつつ、ため息をつくことになるのか。とりあえずそれこそ読書の快楽に他ならないと、酒場Zで酒をあおることになるのだろう。
「行手に雲の湧くところ、風はげしく、雷遠く、白蛇がうねつて舞ひのぼつた。谷の水がさわげば鹿が胡弓をひき、峰の花が散れば兔が太鼓をたたく。梢には雀がさえずり、草には虫が鳴く。舟は瀬にゆらぎ、瀬は波を揚げて、落ちかかる瀧のいきほひは堰をやぶり、河にとどろき、海に入つては音は絶えない。天地震動。波は高く低くみだれ、舟はあへぎつつただよふ。やうやく難所を乗切つて、沖は晴れた。かなたの空に、日は炎のやうにかがやいて、浮かれ烏のむれが羽根をひろげていた。波しづまつて、舟はうつらうつらとながれた。(P80-81)」
「爛熟した果実。果実はあかあかと割れて飛ぶ。種子は見るまに芽をふき枝を伸ばして、果樹園が生ひ茂つた。(中略)東吉はまぼろしの園の中に分け入つて、もとめるものはなにか、さがしても手につかめず、夢うつつの境にわれをわすれて、ただ鼻にしみる強い香に酔つた。女の肉のにほひか。いや、たましいのにほひにちがひない。たましいとはなにか。神秘にみちたまつくろな穴。行け。身を捨てて飛びこめ。そこが生死の淵であつた。(P391)」
いやはや、これはなんの描写であるのか。これほど肉感的で、しかし具象のない写実というのはまずないであろう。この種の言葉、まずは人の口から漏れたとは思えないような会話。上記のことなど抜きにして、この国の言葉は彫刻されていくとここまで美しくなることに驚け。言葉に酔え。1986年初出。
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