2013/09/17 笠井潔「哲学者の密室」(光文社)-5
1992年に筒井康隆は朝日新聞の書評欄に連載を持っていて、同時期にこの本がでたので取り上げられた。「富豪刑事」の神戸刑事が書評するという趣向。そこで指摘されていたことを思い出すと、
・現在(1976年)の事件でも過去の1945年の事件でも、犯人が被害者に接触して、いくつかの行動の指示をするのだが、その手段が偶然に頼っていたり、周辺人物に知られていない理由が明らかでない。
・なので、尋問範囲を広げ、執拗な尋問をすれば、ここから犯人の手がかりが浮かび上がるのではないか。
・また監禁している部屋にトイレやシャワー設備がないのもおかしい。
あたりだったかな。いずれも長い準備期間をかけたこと、自殺にしかみえない他殺を実現することで、ずいぶん手間をかけているのだから、その企図は周辺に疑惑や不審の痕跡を残しそうなものなのに。要するに、本質直観の現象学的推理に頼らずとも、堅実な警察の組織的な調査によって問題解決が図れたのではないか、という批判。まあ、そうかもしれない。そのあたりは作者だって理解済のはず。
にもかかわらず、警察を間抜けにさせても駆を探偵にしたのは、本編で語られる20世紀大戦間の探偵小説が露出した被害者-犯人-探偵の図式を明示したかったから。ここでもハルバッハの死の哲学が慣用され、すなわち第1次大戦の前衛と後衛の区別をなくした総力戦は、死の意味を変えた。無数の、無名の死者が無個性で無意味な死を遂げる。その死の表現する圧倒的な「無」に対して、ハルバッハは死の哲学を、ヒトラーは国家社会主義を持ち出して、死に意味を与えようとする。同じような意図を探偵小説家も通俗的な小説で行った。探偵小説においては、死者の周辺にある謎が死者の意味を浮かび上がらせ、彼の死が特権的であることを強調する。そのとき、遺産相続と隠し子で混乱するというのは自分には面白いなあ、死者にはプライバシーがなくなるんだ。でもって、犯人と探偵は死の特権性を保証するための祭祀のごとき存在になる。彼らが死者に意味付けをして、その死に価値があると思わせるのだ。それは読者の日常の凡庸さ、死の凡庸さを隠ぺいする手段となる。まあ、探偵小説を読んでいる間は、日常と死を忘れて、読者が特権的であるように思わせるからね。そのときに、被害者-犯人-探偵の役割は19世紀探偵小説とは異なる。19世紀においては犯人と探偵が特権的な立場にいて、死者は彼らの理性の勝利を支えるための飾り物だったから。この要約であっているかなあ。
さらには、探偵は「真犯人はハルバッハ」と指摘するのだが、それはこの物語内部だけのことではなくて、「バイバイ・エンジェル」ないし「テロルの現象学」以来の作者の主題である観念論批判の総決算でありその象徴としての現象学批判にもなっている。探偵はこれまで「本質直観」によって事件の構図を観照することが解決の唯一の方法であるというのだが、それはこのあとの探偵小説でも可能であるのかしら。
参考になるのはエラリー・クイーンの軌跡かな。国名シリーズに登場したときは事件はゲームかパズル。エラリーは事件の渦中にはとびこまないで父親たちの捜査の背後にいる。得られた情報を自分の部屋や父親の事務室で検討して推理する。カケルのいう「抽象的な目」となって、倫理とは無縁。のちのエラリーはこのような態度をすてて、事件の渦中にはいり、関係者の苦悩を共有しようとする。そのときには自分の行為について、あるいは他者に介入することについて悩むことになる。その結果、エラリーはリュー・アーチャーに似てきたことはすでに指摘済。このように抽象的な視線であることから離れて、他者との関係性に介入する倫理を実践しなければならなくなる。こういう変化がカケルにも現れるかしらねえ。(いや、次作を読むとどうやら埴谷雄高「死霊」の三輪与志のごとく、虚体になるべくますます透明になっていくようだ)。